金を拾う
『大岡政談』「畳屋・建具屋出入りの事ならびに一両損裁許の事」 3両拾った建具屋が、落とし主の畳屋に届けるが、畳屋は「3両は、拾ったお前のものだ」と言って、つき返す。畳屋も建具屋も、互いに相手に「3両を受け取れ」と言って、争いになる。大岡越前が自分の懐から1両出して合計4両とし、畳屋と建具屋に2両ずつ与える。越前は、「畳屋も建具屋も、3両得るはずのところ、2両になって1両の損。この越前も1両の損。3人そろって1両ずつ損したのだ」と裁く。
『本朝桜陰比事』(井原西鶴)巻3-4「落し手有拾ひ手有」 京都でのこと。2人の男が褒美目当てに、「3両を受け取れ」「いや、受け取らぬ」と争って、公儀へ訴え出る。訴えを聞いた御前(ごぜん)は、「3両が不要なら、金の捨てようはいくらでもある。それなのに、2人でわざわざ訴え出るのは怪しい」と言って厳しく詮議し、彼らを追放の刑に処した。
『名判決』(星新一『ちぐはぐな部品』) 2人の男が褒美目当てに、「3両を受け取れ」「いや、受け取らぬ」と争って、大岡越前守に訴え出る。越前守は「三方一両損の判決は誤りだった。私は責任をとって切腹する。お前ら2人は打ち首だ」と言う。驚愕した2人は、「命ばかりはお助けを」と泣き叫ぶ。越前守は「反省するなら助けてやる」と言い、「お前ら2人は打ち首にならず、私も切腹せず、3人ともに命が助かった。三方命得(いのちどく)だ」と解説する。
『太平記』巻35「青砥左衛門が事」 夜、滑川(なめりがわ)に銭10文を落とした青砥藤綱は、50文を費やして続松(たいまつ)を買い、それを明かりにして、10文を拾い上げた。彼は、「川底に10文を失ったら世の損失だが、続松代の50文は商人の手に渡り、経済活動に使われる。合計60文の銭が少しも無駄にならず、天下の利となった」と言った。
『武家義理物語』(井原西鶴)巻1-1「我物ゆへに裸川」 夜、滑川に銭10文を落とした青砥藤綱は、3貫文(3千文)を出して大勢の人足を雇い、銭を捜させた。1人の男が「川底の銭など、とても見つかるまい」と考え、手持ちの銭を川底から拾い上げたかのごとく偽って差し出し、褒美の金をだまし取った。後にこれを知った藤綱は、その男を滑川に入れて、川底の銭を捜させる。秋から冬にかけて、97日目に、ようやく男は10文の銭をすべて拾い上げた。
『西鶴諸国ばなし』巻5-7「銀が落としてある」 江戸へ出て財をなした人が、故郷大阪へ帰った。近所の男がその人に「何の商売をすればもうかるか?」と尋ねたので、その人はからかって「落ちている金を拾うのがよい」と答えた。男はそれを真に受けて江戸へ行き、馬鹿正直に金を拾いまわり、やがて富貴の身となった。
『地見屋』(落語) 貧乏長屋に住む吉兵衛は、他の店子(たなこ)と違い、毎月きちんと家賃を払う。家主(おおや)が不思議に思って、「お前さんの商売は何だ」と尋ねる。吉兵衛は「私は地見(じみ)です」と答える。彼は毎日、夜明けから日暮れまで、地面を見て江戸市中を歩き回り、落ちている財布・紙入れ・簪などを拾っていた。それで立派に生計が立つのだった。
『酒中日記』(国木田独歩) 「自分(大河今蔵)」は薄給の、年若い小学校長である。「自分」の母は堕落し、しばしば金を借りに来る。学校改築費用の一部として「自分」が預かった大金百円を、母は奪い去る。途方にくれた「自分」は、青山の原で、3百円の札束が入った手提げ鞄を拾い、それを着服してしまう。妻は「夫が盗みをした」と思い、子供を背負って井戸に身を投げる〔*「自分」は辞職し、数年後、酔って水死する〕。
『武家義理物語』(井原西鶴)巻5-1「大工が拾ふ明ぼののかね」 かつて石田光成の妾だった美女花園が引越しの途中、銀3貫目を落とす。もと武士だった大工九左衛門がそれを拾って持ち帰るが、九左衛門の妻は、夫が盗みをしたと疑い、役所へ訴える。しかし、花園が銀を落としたことを届け出、九左衛門の嫌疑は晴れる。役人は九左衛門の妻を非難し離縁させ、九左衛門と花園を結婚させる。
*金ゆえ身投げしようとする人と、それを助けた人との縁組み→〔身投げ〕1bの『文七元結』(落語)・『耳袋』巻之1「相学奇談の事」。
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