都市形成以前のフルダと修道院
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「フルダ」の記事における「都市形成以前のフルダと修道院」の解説
フルダでは、変化に富んだ地質学的変遷の後、石器時代の痕跡が見つかっている。最初の入植は紀元前5000年頃であることが判っている。民族移動によりこの地域に新たな入植地が形成され文化的に発展した。ケルト人の集落がミルゼブルクに形成された。ローマ帝国解体後、フランク王国が中央ヨーロッパの覇権を拡大していった。フランク王クローヴィス1世は洗礼を受けることでローマの支援を確保し、広範囲にわたるキリスト教化が始まった。教皇の要請を受けたボニファティウスは、この地域のゲルマン民族に対する布教を行い、ローマ=カトリック教会の管理下に組み込んだ。 この集落の発展は修道院の創設によって始まった。744年3月12日、フランク王国アウストラシア宮宰カールマンの支援の下、ボニファティウスの周到な準備の末にフルダ修道院は設立された。彼は弟子のストルムとその仲間が聖ベネディクトの会則に則り禁欲的生活を送ることを求めた。751年彼は修道院のために教皇ザカリアスから、修道院の司教権からの免属(Exemtion)とローマ教会への直属を認められている。754年にこの修道院に埋葬されたボニファティウスはこの修道院の中心的守護聖人となった。「マインツ司教(Lullus)に抵抗したフルダの修道院長ストルムは763年の夏ピピンによって罷免され、マルクスなる者が修道院長に任命されたが、フルダの修道士らは新任者に抵抗し、その職務遂行を不可能にしたため、遂にはストルムが再びその地位を回復した」。ストルムの罷免中、765年修道院は国王修道院となった。774年 カール大帝により修道士による修道院長の自由選挙権とイムニテート(公吏不入権)を授与されている。両権は後続の王・皇帝によっても承認された。以後王侯による寄進が続いた。「カロリング時代・・・フルダ修道院の所領はこの時代アルプスから北海までに散在し、1万5000マンスス――1マンススは30エーカー――以上もあった」。修道士の数も781年の364人から825年/826年の600人以上と増加し、修道院本院と分院に分かれた。その結果全体の 運営が困難になり、一方で王権からの要求も増加した。この修道院はマインツ大司教座との関係が深く、7人の大司教がフルダ修道院の出身である。 791年から819年にラトガー=バシリカ(修道院長ラトガーにちなんで名付けられた)が建設された。これは、当時ではアルプスの北側で最大の教会建築であった。同じ頃、農民や職人が修道院の周辺に住み始めた。 フルダ修道院でも他の修道院と同じく主にラテン語の宗教文書の書写が行われたが、この修道院では、ドイツ語史・ ドイツ文学史上重要な『 ヒルデブラントの歌 』、『タツィアン』(’Tatian’)等の作品も記されている。また、熱と癌に対する『(バーゼルの)処方箋』(’(Basler)Rezepte’ )と称する文書も当地に由来するものと思われる。 「フルダ修道院の付属学校は院長アイギルス(在位818/19-822)およびラバヌス=マウルス(ラバヌス・マウルス・マグネンティウス)のもとでフランク王国第一級の地位にあり、特にラバヌスはキリスト教諸文献に通暁してその師アルクインを凌ぎ、「ゲルマニアの教師」という尊称をもって呼ばれた。フルダに学んだヴァイセンブルク修道院のオトフリッドは初めて聖書をドイツ語で注解したが、これは恐らくラバヌスの影響であったろう」。 フルダ修道院は古典テクストの継承においても重要な役割を果たした。タキトゥス『小作品集』(Opera minora)とスエトニウス『文法学者について』(De grammaticis)はフルダで保存された写本のおかげで現在まで残っている。また、「小プリニウス、アウルス・ゲリウス、エウトロピウス、ノニウス・マルケルスらのテクストの歴史を研究するうえで重要な写本を提供した」。そして、タキトゥス『年代記』(Annales)第1-6巻もここで書かれている。
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