選挙権の剥奪と新南部:1877年-1940年
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「ミシシッピ州の歴史」の記事における「選挙権の剥奪と新南部:1877年-1940年」の解説
ミシシッピ州はジム・クロウ法の時代に典型的なディープ・サウスと考えられたが、南北戦争の後の最初の10年間、いくらか違った様相を呈した。ミシシッピ・デルタの後背地にある未開発の土地に多くの開拓者が現れた。何万人もの黒人と白人の移住者がデルタに来て、土地を買ったり働いたり、木を伐ったりして自分自身と家族が暮らしていくための機会を求めた。ミシシッピ・デルタは川沿いの開拓地とは離れて、まだ耕されていない肥沃な低地が多かったので、アフリカ系アメリカ人は1870年代から1880年代に掛けて、異常に高い確率で土地の所有者になった。 世紀の変わり目までに、ミシシッピ・デルタに土地を所有した農夫の3分の2はアフリカ系アメリカ人だった。土地を耕し木材を切り出すその重労働は将来の利益を約束した。その土地を耕し開発することは貴重なことだったが、綿花価格が下がる困難な数十年間を借金を拡大することで繋いでいくしかなかった。その他の農業不況が1890年代に綿花価格を押し下げる中で、多くのアフリカ系アメリカ人農夫は最終的に負債を払うために土地を売却するしかなかった。 1890年、ミシシッピ州は文字識別試験と人頭税を有権者の新しい資格要件とする新しい憲法を採択した。これらの要件は1892年の立法も加えて、登録された黒人有権者の数を恐ろしく減らし、多くの貧乏白人と共に事実上選挙権を剥奪された。有権者のみが陪審員になることができたので、権利剥奪はアフリカ系アメリカ人や貧乏白人が陪審員にもなれないことを意味し、地元や州の役職に就く道も阻まれ、連邦議会の代表になることも無くなった。1898年に「ウィリアムズ対ミシシッピ州事件」での最高裁への異議申し立てをこれらの規定が凌ぐと、他の南部州議会は急速に新しい憲法やその修正条項にこれら規定を取り入れ、実質的にアフリカ系アメリカ人の権利剥奪は南部州全てに拡がった。1900年、ミシシッピ州の人口の59%近くがアフリカ系アメリカ人だった。権利剥奪された黒人として910,060人以上の市民が代表権を失った。 投票箱を支配し信用貸しをさらに多く得ることで、白人農園主はデルタ後背地の所有土地を拡げ、新しい鉄道で輸送できる利点を生かせるようになった。1910年までに、デルタの黒人農夫の大半は土地所有者の代わりに小作農になっていた。アフリカ系アメリカ人の権利剥奪、一連の限定的人種差別法の増加、増加する私刑、ワタミゾウムシの虫害による綿花の生産低下、および1912年から1913年と続いた激しい洪水によって、第一次世界大戦の時から何万人ものアフリカ系アメリカ人がミシシッピ州を離れ、北部へ移住した。大移住時代に、頑固に機会から締め出してきた社会を離れて北部へ移動した。 1920年までに、奴隷解放から第3世代となったデルタのアフリカ系アメリカ人の大半は土地の無い小作農か、貧乏から逃げられない労働者になった。大移住時代に、大半の移住者は列車を使って直接シカゴに行った。次の移住の波は1940年代に始まった。およそ50万人、第2の移住の波で黒人の4人に3人がミシシッピ州を離れた。多くの者が急成長する防衛産業で職を求めた。 ミシシッピ州は豊かで典型的な伝統的アメリカ音楽の中心になった。ゴスペル音楽、ジャズ、ブルースおよびロックンロール、これら全てがミシシッピ州の音楽家によって生まれ、広められあるいは大きく発展した。ミシシッピ州は、ノーベル賞作家のウィリアム・フォークナーの他にも、ウィリアム・アレクサンダー・パーシー、ウォーカー・パーシー、シェルビー・フット、スターク・ヤング、ユードラ・ウェルティおよびアン・ムーディ等の作家でも有名である。 ジョン・ロマックスはアメリカ議会図書館のためにデルタの豊富な伝統音楽の幾つかを録音した。大変若いマディ・ウォーターズを録音し、またパーチマンのミシシッピ州刑務所でブルースや聖歌も録音した。
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