通勤路線への変貌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 01:25 UTC 版)
1950年代も後半に入ると、都市中心部を走る路線だけでなく、京阪神緩行線や横須賀線のような、当時としては中距離路線においても混雑緩和と輸送力の増強が求められるようになった。中でも、横須賀線の輸送力増強は緊急の課題であったが、直流用の新性能近郊型電車の導入までにはまだ時間がかかることから、京阪神緩行線の70系を転属させて投入することにした。つまり、中央線快速・山手線の新性能化や、大阪環状線西側の開業用に101系を投入、そこで捻出された40系・72系を京阪神緩行線に転属させることによって70系を捻出して転属させたのである。このような形で、1960 - 62年にかけて明石・高槻の両区からモハ70形の100番台車を含む70系の大半が大船に転属したほか、阪和線快速の輸送力増強も同じ手法で実施したことによって、鳳電車区(現在の日根野電車区鳳派出所)にも70系の一部が転出した。また、この手法は動力近代化による新規電化区間の開業時においても使われ、1960年10月の岡山地区の電化に伴い、51系の一部が岡山電車区に転出したほか、1962年5月の信越本線の新潟駅までの電化の時に70系とクハ68が転出している。さらに、京阪神緩行線の輸送力増強もこれらの転入車でまかなわれることになった。ただ、この時期に中央線快速や大阪環状線から転入した72系は、比較的後期の新製車や920番台の全金属車が多く含まれていたほか、後に可部線で活躍するクモハ73001のような全金属改造車もあったことから、後に転属してきた72系の車両に比べるとまだレベルが高かった。 51, 70系の転出と72系の大量投入によって、3扉セミクロスシート車主体の京阪神緩行線の編成は大きく崩れることとなったが、ラッシュ時は300%を超える混雑率になることから、4扉ロングシートへの移行が行われた。それでもなお輸送力の不足は否めず1961年から快速にサロ85の連結が開始されたことから、1962年10月にはクロハの連結を廃止しロングシート改造を施しクハ55150番台に格下げを行い少しでも多くの定員を確保した。 確かに、京阪神緩行線の沿線人口は増加し、ラッシュ時の混雑は激化していたが、昼間時はさほど混雑していなかった。このような線区への72系の投入は明らかなサービスダウンだが、51・70系が使い勝手がいい車両であったことと、72系を転用できる路線が限られていたことから、結果として京阪神緩行線が貧乏くじを引く結果となった。しかも、輸送力増強用に関東から転入してくる72系は、可部線で活躍するクハ79004のような戦時中に製造された鋼体化改造車や旧63系の改造車が大量に含まれていたほか、それまでの整備が雑であったことから、どんどん車両のレベルが低下していった。しかし、これらの車両を活用して1963年には大半の列車が7両で運行されるようになったほか、吹田駅 - 尼崎駅間を往復する区間運転が復活、1964年10月1日には甲子園口駅の配線改良に伴い、往復運転の折り返し駅が甲子園口駅に変更された。また、1965年3月には鷹取駅 - 西明石駅間の複々線化が完成したが、それに先立つ1961年6月に西明石駅の現在地への移転を実施した。翌1966年には京都駅 - 向日町駅間の貨客分離に伴って旅客列車用線路の複々線化が完成したことにより、電車線が完全複々線化された。
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