送還と逮捕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 16:24 UTC 版)
「アルベルト・フジモリ」の記事における「送還と逮捕」の解説
2007年9月21日、チリ最高裁はペルー政府より2006年からなされていた身柄引き渡し要請について認める旨決定。嫌疑は軍による民間人殺害への関与など2件の人権侵害と汚職5件の計7件。引渡し後は、刑事被告人として裁かれる、ということになった。23日、チリを離れ、ペルーの首都リマへ到着し、そのまま国家警察の施設へ収容された。 10月5日、ペルー最高裁は7件の容疑について3つに統合した上で11月26日から審理を開始することを決めた。 12月10日の初公判でペルー検察は禁錮30年を求刑し、フジモリ被告は無罪を主張した。さらに大統領時代の功績にも熱弁を振るったため、裁判長から注意を受けた。2008年4月15日、ペルー最高裁は、令状なしでモンテシノス元国家情報部顧問関係先への家宅捜索を命じた容疑で、禁錮6年と2年間の公民権剥奪と40万ソル(約1500万円)の罰金を命じた有罪判決を下した。 2009年4月7日、1990年代にペルーで起きた軍特殊部隊(コリーナ部隊)による民間人殺害事件の「ラ・カントゥタ事件」「バリオス・アルトス事件」について、一審であるペルーの最高裁特別法廷はフジモリ被告を有罪として禁錮25年の判決を下した。 2010年1月3日、最高裁刑事法廷は、禁錮25年と被害者遺族への賠償金支払いを命じた一審の判断を支持する判決を下した、と発表した。裁判は二審制で、これにより同事件での実刑が確定した。 2017年6月頃よりペドロ・パブロ・クチンスキ大統領がフジモリの獄死を回避するため、医師団が健康上問題ないと判断すれば恩赦を実施する意向を表明。12月23日にフジモリは急激な血圧の低下と心拍異常によりリマ市内の病院に入院し、翌12月24日にクチンスキはフジモリを含む8人の恩赦を決定した。同年11月にはクチンスキの汚職疑惑を受けて罷免決議案が野党フエルサ・ポプラル(フジモリ派)によって議会に上程されたが、フジモリの次男ケンジによって反対票が取りまとめられ、11月21日の採決では決議案は否決、クチンスキの首がつながったという経緯があったため、恩赦に否定的な勢力からは野党議員に対し、罷免反対票とフジモリ恩赦の取引が行われたと非難が巻き起こり、恩赦に反対するデモも発生した。 恩赦後、フジモリは病床からビデオメッセージをフェイスブックに投稿し、今後は政界には戻らずクチンスキ政権へ協力することと、自らの大統領時代に強権を行使したことへの謝罪の言葉を口にした。2018年1月4日、リマ市内の病院を退院し、約10年ぶりに自由の身となった。しかし同年10月3日になって最高裁は、フジモリの健康状態は自由にしなければならないほど悪くはないとして恩赦を取り消し、フジモリの身柄を拘束するよう命じた。直後にフジモリは体調不良で入院し、長女で政治家のケイコ・フジモリは不服を訴えたが、そのケイコは同年10月10日、ブラジルに端を発し南米各国(少なくとも11ヶ国を)巻き込んだ「オペレーション・カー・ウォッシュ(Operation Car Wash)」と呼ばれるマネーロンダリング事件にブラジル企業オデブレヒトを介して関わったとして、身柄を拘束されている。 2021年10月1日、収監中の拘置施設で激しい頭痛や動悸を訴え、血中酸素飽和度の低下や胸の痛みなどの症状がみられたことからリマ市内の病院に入院した。マスク姿で車いすに乗り転院する様子が報じられた。。容態が悪化したため10月4日には別の病院に転院して心臓手術を受け、術後は容態が安定していると発表された。2022年3月17日に憲法裁が恩赦の復活を決定し、フジモリは再び釈放されることとなった。4月8日、米州人権裁判所はペルー政府に対し、フジモリの釈放を認めるべきではないとの決議を出した。ペルー政府は人権裁の判断に従うとしている。
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