農業と鉄道の発展
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「ミネソタ州の歴史」の記事における「農業と鉄道の発展」の解説
南北戦争後、ミネソタ州はヨーロッパ人移民にとって農業用地としての入植に魅力的な地域となった。ミネソタ州の人口は1870年に439,000人であった。この数字が次の20年間に3倍になった。1862年のホームステッド法によって、この土地が安く肥沃だと見なす開拓者達による所有権請求が促進された。鉄道産業は、ノーザン・パシフィック鉄道とグレート・ノーザン鉄道によって牽引され、州内の多くの可能性を宣伝し、移民達にミネソタ州で定着するよう働きかけた。特にジェームズ・ジェローム・ヒルはセントポール・アンド・パシフィック鉄道を再組織化し、ミネアポリス=セントポール地域からレッド川およびウィニペグまで延伸させる提唱者であった。ヒルはミネアポリス市の新しい旅行客の発着所建設にも貢献し、1883年に完工したストーンアーチ橋が目印となった。1880年代には、ノースダコタ州とモンタナ州を通す鉄道建設を続けた。1890年に、現在のBNSF鉄道と呼ばれる鉄道がシアトルまで西に山岳地を抜ける鉄道の建設を始めた。スペリオル湖ミシシッピ鉄道やミルウォーキー鉄道のような他の鉄道も州昇格してから間もないミネソタ州に重要な役割を果たした。後に、スー・ライン鉄道やミネアポリス・アンド・セント・ルイス鉄道などがミネアポリスの小麦粉など産物の販売を促進したが、これらは開拓者を惹き付けるほどではなかった。 オリバー・ハドソン・ケリーは、合衆国農政局の他の数人の事務員と共に、農民共済組合の創設者の一人として農業で重要な役割を演じた。この動きは南北戦争の終戦に続く共同農業団体に関する興味から生まれ、エルクリバーとセントポールで地元の組合支部を作った。この組織が新しい農作法の教育のために働き、農夫にとって重要な事項について政府や世論に影響を与えた。この地域の関心事項の一つに鉄道会社による輸送料金や穀物倉庫料があった。ミネソタ州の農業社会で使える鉄道会社の間には競合関係がほとんどあるいは全く無かったので、鉄道会社は輸送量にあわせて料金を設定できた。1871年までに、この状況が加熱され、共和党も民主党も州内選挙でその候補者達が鉄道輸送料金を規制すると公約した。州は鉄道長官のポストを作り、輸送料金に上限を設けた。人民党のイグナティウス・L・ドネリーも農民共済組合の組織化を進める者として働いた。 ミシシッピ川にある滝の高さとしては随一のセントアンソニーの滝は、ミネアポリス市の発展に重要な役割を果たした。滝の水力は初めに製材所を動かすために使われたが、後には小麦粉の製粉場に使われた。1870年、ミネアポリス地域には少数の製粉場があるに過ぎなかったが、1900年までにミネアポリス市では国内生産量の14.1%を挽いていた。輸送手段、製粉技術および水力利用の進歩が組み合わさり、ミネアポリス市は製粉産業に君臨した。春まき小麦は春に種まきをし、晩夏に収穫されたが、製粉するときに特別な問題があった。これらの課題を解決するためにミネアポリスの製粉業者は新しい技術を使った。彼らは製粉工程の初期に小麦粉から殻を吹き飛ばすためにジェット空気を用いた装置、ミドリングズ・ピュリファイアを発明した。挽き臼に代わるものとしてローラーミルも使い始めた。一連のローラーが穀粒を徐々に小さく潰していき、グルテンをデンプン質に溶かした。これらの改良は「特許」小麦粉の生産に繋がり、「ベーカーズ」あるいは「クリア」小麦粉のほぼ2倍の価格となってもそれらを凌駕した。ピルスベリー会社とウォッシュバーン・クロスビー会社(ジェネラルミルズの前身)がミネアポリス市の製粉産業のリーダーとなった。製粉工程がもはや水力に頼らなくなったときにこの製粉業の指導力は衰えたが、製粉業界での支配力はミネアポリス市とミネソタ州の経済に大きく貢献し、地域に人と金を惹き付けた。
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