行政官時代
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1870年(明治10年)1月、当時の第20大区(神石郡に相当)区長として他の大区長らと連名で、広島県令藤井勉三に対し、小区事務扱いについて次の伺いを提出している。「先般大小区の区画を改正されましたが、各小区の事務扱所の概則をはじめ、地租ならびに諸雑税請納民費割賦収納金等の諸帳簿、並びに人別より取り立ての順席等を別冊のとおり定め、正副戸長へ相談しております。右は昨年末にご進達申し上げておりましたところ、県庁焼失の歳書類が焼亡されたとのことですので、更に伺いますので何卒、至急にてご指揮いただきますよう、お願い申し上げます。」 1871年(明治11年)11月、広島県で郡区町村編制法(三新法)が施行され、芦田郡、品治郡、安那郡3郡の郡長に就任した。就任して間もなく、コレラに感染して死去した医師藤野昌言の顕彰の碑建立について裁可を行っている。 1892年(明治12年)1月、三新法施行について各戸長に通達を行った。その中で、新制度下での戸長のあるべき姿を次のように訓示している。 「明治維新以降、地方を区画して区長・戸長を設置したのは、汎く行政の便宜を図るためではなく、単に戸籍調査のために設けられたのが趣旨であった。各地でその制度が異なっており、その煩雑さや民心に適さない点を挙げて云ってはならなかった。今、これを改正整理して大小区の重複を除き、費用を節減し、郡町村の旧名を復活させ、郡長の職務責任を重くして施政に利便のあるものとした。なお上下の為に各村あるいは2~3村を併せて戸長を設置し、その業務としては、行政事務に従事するとともにその町村自治の理事としての性質の者として、所謂官民の間に立って官令を遵守し、下は庶民と親密に接して厚誼を尽くし、なお世の実態をも熟知させるものであるべきである。自宅において従事するといえ、もし『旧復』の二字を誤認して以前の庄屋名主のような古い慣習になじむことようなあっては罪責を受けるのみならず、忽ち村民の疑団を招く。これはもってのほかである。いよいよ朝県郡令共に村内に速やかに示し、地租および諸税をとりまとめ上納することをはじめ、事理を正し総ての金穀に関する計算等は分別して細密にし、諸帳簿の保存管守の事まで丁重に注意し、村内の庶民に百事の方向を誤らせないよう、柱石となることを単に所望している。」 1873年(明治13年)には、桜山神社の修繕について民意に沿う形で広島県に具申をしている。同年12月、芦田郡府中町(現在の府中市)に設置された郡役所について、不便であるとして安那郡人民から郡役所移転願が提出された。これに対し、「このことは人民より請願すべき筋ではなく、利便性があると認められる証跡があるのであれば、(当方から)移転を建議すべきものである」として、書面を以て返答している。 1874年(明治14年)、品治郡内の有地川・服部川・神谷川の3河川について、従来の土木費の負担方法を見直す為の官民調査が実施されたことに対する郡内の村々の憂慮を受け、官費負担を維持するよう広島県令千田貞暁宛てに要望書を提出している。しかし同年11月に明治政府は府県土木費への官費下渡金を廃止していることから、要望虚しく3河川とも民費負担となったとみられる。
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