荒井郁之助(あらいいくのすけ 1836-1909)
初代の中央気象台長、日本の経度測定と標準時の制定。
荒井郁之助は江戸の生まれ、戊辰戦争の函館側海軍奉行で、測量技術者であり、そして開拓使仮学校時代の業績から「北海道教育の先駆者」とも呼ばれる。
江戸湯島で幕府代官荒井清兵衛の子として生まれた荒井は、幼名を幾之助といった。昌平黌で蘭学・洋算を学び、武技に優れていた。のちに軍艦操練所に入り、ここで航海術を学び、微積分の独習もしたといわれる。江戸湾測量などを担当、文久2年(1862)操練所頭取、明治元年軍艦頭となる。
戊辰戦争の際は、榎本武揚らと行動を供にし、函館で海軍奉行となり、最後まで奮戦したが降伏、その後幽閉されるが、明治3年(1870)に特赦となり、当時は中央官庁であった開拓使に出仕した。
当時の開拓使顧問ケプロンは、特に教育と測量事業に力を注いだ。その中で荒井は、初期には開拓使仮学校の実質的校長として、その後は測量技術者として活躍した。
開拓使の測量・地図作成は、当初勇払・函館の基線測量を基にする三角測量に拠ったが、方針の変更で挫折した。並行して、河川・港湾測量が行われ、荒井はこれらの測量を担当するとともに、「北海道浦川湾図」「北海道石狩川図」「北海道実測図」などの成果を残した。ここまでの技術は、アメリカ人で、開拓使測量長であったワッソン、デイらから得たものである。
その後内務省に入り、地理局測量課長となり測量事業の基礎を作った。特に、全国大三角測量の創始、日本の経度測定と標準時の制定、日本で最初の科学的皆既日食観測(明治20年)に携わり、明治19年(1886)海軍観象台の経度決定に際してダビッドソン・チットマン、小林一知・三浦清俊の測定結果とともに、地理局測定の荒井・小林の平均値が当てられた。明治17年以降は、気象台の設立に努力し、明治23年に中央気象台の施行とともに初代東京気象台長となり、明治42年(1909)に没した。著述には、「測量沿革考」(明治16年)「日本ノ地学経度」(明治18年)がある。
墓碑は、港区広尾の祥雲寺にある。現東京荒川区(三ノ輪)圓通寺には、旧幕臣戦友の集まり碧血会が中心になって建立した榎本武揚、大鳥圭介、そして荒井郁之助などの追悼碑が残る。
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