自社工場での電力利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 13:34 UTC 版)
「イビデンの水力発電所」の記事における「自社工場での電力利用」の解説
上記のように、イビデンは電力会社として設立された会社ではあるが、既存電力会社に供給区域を奪われて供給事業を制約された結果、自社発電力の供給先として電気化学工業を拡大していった。 揖斐川電力が最初に手掛けた兼営事業は第一次世界大戦期に日本各地で盛んになった炭化カルシウム(カーバイド)やフェロアロイの製造である。どちらも大量の電力を投じ電気炉によって製造する製品であり、西横山発電所完成から1年余り経った1917年(大正6年)1月大垣に工場(現・イビデン大垣事業場)を完成させ、2月からカーバイド製造、8月からはフェロアロイ製造を開始した。その後兼営事業の多角化を目指すものの、大戦終結と戦後恐慌発生で頓挫、カーバイド製造と小規模なカーボン製品(炭素アーク灯用の炭素棒など)製造だけが残った。 揖斐川電気時代の1922年、地元の鉄道会社養老鉄道を合併し、翌年路線の電化を完成させて余剰電力の受け皿としたが、投資に見合う利益はなく、1928年(昭和3年)に新会社へと営業譲渡してこれを合併させるという形で伊勢電気鉄道(近畿日本鉄道の前身)へと移管して、短期間で鉄道事業から撤退した。兼営工業部門が再び活況を呈するようになるのは1931年の満州事変勃発後のことで、軍需の増加からカーバイド・カーボン製品生産が増加したほか、1935年(昭和10年)にカーバイドを原料とする石灰窒素の生産を開始し、1937年(昭和12年)からはフェロアロイ製造も再開した。 揖斐川電気工業時代の1942年に西横山・西平両発電所を手放したが、3か所の水力発電所が自家用として手元に残り、引き続き自社電源によって自社工場の必要電力を賄うことができた。太平洋戦争終戦後にかけて自社電源に余力のある状況が続いたが、1950年(昭和25年)の特需景気による増産を機に電力会社(中部電力)からの受電が増加していく。同年からは電力消費量の大きい熔成リン肥の生産も始まった。しかし1960年代後半に入ると、有機合成化学の分野でカーバイドから石油化学系への原料転換が進み、カーバイドの需要が減退する。それでも電力消費量はフェロアロイの増産で増加し続け、受電増加の結果ピーク時には自家発電比率が2割近くまで落ち込んだが、そこにオイルショックによる電力料金高騰が直撃し、輸入品に対するフェロアロイの競争力は急減した。 オイルショックを機にイビデンは電力多消費型の電気炉工業から省電力型の加工産業への転換を図り、プリント基板やセラミックス製品・特殊炭素製品の製造に軸足を移しはじめる。そして1978年(昭和53年)にまずフェロアロイ製造を終了、次いで石灰窒素・熔成リン肥製造を打ち切り、1991年(平成3年)7月にはカーバイド製造も停止して、電気炉工業から完全に撤退した。 こうして会社の創業期から続いた電気炉工業は消えたものの、東横山・広瀬・川上の3水力発電所はイビデン自社工場の電源としてその後も維持され続けた。2009年度(平成21年度)の実績では、自社水力に火力発電・太陽光発電を加えた自家発電によって、プリント基板工場の大垣事業場やセラミックス工場の大垣北事業場(揖斐川町北方)など自社工場で使用する電力の7割超が賄われている。2013年(平成25年)3月には大垣北事業場に電力会社の送電網と連系するための設備が新設され、再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度 (FIT) に基づき余剰電力を電力会社へと売電する体制が整えられた。
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