自社参戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 08:36 UTC 版)
1995年には「1996年からF1へ独自参戦をする」とアナウンスを行い、アラン・マクニッシュをテストドライバーとして実走テストを行ったが、参戦に必要な資金を集める事が出来ず、またテクニカルレギュレーションが安定しなかった事で参戦を見送った。 1997年に、ローラは単独でのF1参戦に踏み切った。メインスポンサーにマスターカードが付き、カード会員から協賛金を集めるというユニークな計画を示した。しかし、急造したシャシーにフォルティ・コルセが使用していた中古エンジンを組み合わせたマシンは全く競争力がなく、開幕戦ではジャック・ヴィルヌーヴが記録したポールタイムから10秒以上も離され、2台揃って107%ルールに抵触し予選落ちとなった。続く第2戦のブラジルGPでは、直前でマスターカードが突然財政支援を停止した為に、チームはエンジン(フォード)使用料の支払が不可能となりエンジンが供給されなかったので出走不可能になった。しかしブロードレイは「次戦までには新たなスポンサーを見つけて参戦を続ける」と発表したが、新たに資金を提供してくれるスポンサーが見つからずにF1から撤退をした。またシーズン途中でエンジンをフォードから「ローラV10エンジン」に変更する予定であったが、撤退により表舞台へ出る事は無かった。 1996年の終わりに唐突とも言える参戦表明から開幕戦までの僅かな時間でのF1マシンの製作は出来たが、開発作業の時間が極めて短く、十分な競争力を確保する事が出来なかった。結果的にはF1参戦表明から撤退までに要した費用が全て借金(数億円と言われた)となり、ブロードレイは会社を手放した。 2010年からF1に導入されることになった選択的コストキャップ制(現行技術規則制限だが、予算は各々が決められる制度と、技術的自由度が与えられる代わりに年間4,000万ユーロでドライバー年俸以外を賄わなければならない制度のどちらかを選択する)を利用し、F1に参戦する計画を進行させていることを発表した。結局、FIA発表の「2010年F1世界選手権エントリーリスト」には登載されなかった。
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