自民党幹事長として
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1961年に政治的暴力行為防止法案の扱いをめぐって紛糾し岸派と佐藤派が倒閣の動きを見せた。池田首相は7月の内閣改造で抜本的な人事刷新を図った。第2次池田内閣1次改造に際して、自由民主党幹事長に就任した。前任の益谷秀次は池田にとって不本意な人事であったが、前尾は腹心からの登用であった。この頃糖尿病を患っており、その影響で肋膜炎が悪化し、膿胸の症状が出て病院で寝ていた。そこへ大平と黒金泰美が訪ねて来て幹事長を要請した。前尾は初め固辞したが、最後は受諾した。 前尾は幹事長として渾身の力を振るい池田内閣を支え、所得倍増計画の推進と池田のブレーン作りに大いに力があった。また、軍人恩給、農地補償の成立、破壊活動防止法(破防法)の廃案決定や、国民協会による自民党への政治献金一本化、党財務委員会の設置による政治資金の透明性を模索した。在任中に前尾は体を壊し、1962年の暮れには幹事長辞任の希望を伝えたが許されず、病院から通勤して務めるようなこともあった。1963年の衆議院解散の際、池田が冒頭解散を目論んだことに対しては、野党の代表質問が全部終わらないうちに解散するのは、議会政治の筋が通らないと、思いとどまらせたことは前尾の筋を通す硬骨ぶりとして伝えられている。当時の幹事長はふつう長くて1年そこそこの務めであり、前尾をたびたび再任させた池田はさすがに「このままでは前尾は三木武吉(のような裏方一筋タイプの政治家)になってしまう」と心配するようになった。1964年7月、池田の自由民主党総裁3選を機に、後任に三木武夫を推薦して幹事長を退任。3年の在任は2019年に二階俊博に更新されるまで最長記録であった。 1964年9月初め、副幹事長の大平正芳が前尾邸を訪ねた。「池田総理の病状がどうも怪しい。ガンらしい」という報告。池田勇人は7月の総裁選の前後からのどの痛みを訴えて、東大病院での診察で喉頭がんであることが判明した。現職首相ががんであることを公表すれば大騒ぎになる。前尾は大平と協議して、9月7日のIMF総会の池田首相演説後に、築地のがんセンターに入院させることにした。池田本人には「がんではないが、最新の治療設備がそこにしかないから」と説明した。前尾は医師団に「がんであることは絶対に秘密にしてうそを言ってもらいたい」と要請した。同月25日、医師団は池田の病状について「前がん症状である」と発表した。 池田首相と一心同体である前尾は極秘裏に池田内閣の幕引きの準備に入り、退陣は東京オリンピック閉幕の翌日と定めた。前尾はひそかに三木武夫幹事長、大平と会い、こうした考えを伝えた。三木幹事長は納得するだろうかと懸念を示したが、前尾は「それは私が引き受けるので、党内手続きを極秘裏に進めてもらいたい」と頼んだ。池田退陣の動きはオリンピック開会中は完全に秘密が保たれた。10月25日、池田首相は病床に河野一郎国務相、川島正次郎副総裁、三木幹事長、鈴木善幸官房長官を招いて退陣の意向を伝え、鈴木官房長官と三木幹事長によって直ちに発表された。鮮やかな引き際であり、世論もこれを称賛した。
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