自民党復党、首相を兼任しない党総裁就任
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「河野洋平」の記事における「自民党復党、首相を兼任しない党総裁就任」の解説
かつて所属した中曽根派から「帰ってこい」と言われたが、中曽根のタカ派体質が馴染めず断り、尊敬する宮澤喜一が領袖を務める宏池会に入る(当時は宮澤派) 。しばらく活動を抑えていたが、1991年(平成3年)には宮澤総裁実現に貢献し、1992年(平成4年)、宮澤改造内閣で内閣官房長官に就任し、また、国務大臣として『婦人問題を総合的に推進するため行政各部の所管する事務の調整』も担当した。河野は「ちょっと待ってください。内閣には森山眞弓さんという文部大臣がおられるから、森山さんにお願いされたらどうですか」と固辞したが、宮澤首相に「君、そういうことをいうからダメなんだ。女性の問題は女性がやればいいという発想が大体間違っている。官房長官のポストはそういうポストだから、君がやれ」と怒られ、婦人問題担当にすることになった。 1993年(平成5年)、小沢一郎ら大量の離党者と第40回衆議院議員総選挙で過半数を割った宮澤内閣が総辞職すると、新党さきがけを結成した武村正義らを懐柔する目的で、後継総裁候補に後藤田正晴が浮上。しかし後藤田が固辞したため、自民党総裁選挙に立候補し、渡辺美智雄を破って自民党総裁に就任。党総裁としては初めて首相の所信表明演説に対して代表質問を行った。総裁選で支持を受けた三塚派から森喜朗を幹事長、橋本龍太郎に「野党は総裁が党務をするから、他党と政策協議にあたる政調会長が幹事長以上に重要だ」と松野頼三の助言を伝え政調会長を受けてもらい、渡辺美智雄から「君とは思想が合わないから」と渡辺派で党役員を出すことを慎重だったが、父・一郎の最後の秘書で河野が信頼していた木部佳昭を総務会長に推薦した。 1994年(平成6年)に政府提出案であった政治改革関連法案が参議院で否決された際、細川護煕首相との党首会談で法案修正で合意した上で成立させた。また羽田内閣総辞職後の政権構想では自分の首相就任を断念して、日本社会党の村山富市を首班に擁立して自社さ連立政権(村山内閣)を成立させ、自民党の政権復帰を実現した。河野は同内閣で副総理・外務大臣に就任した。 1995年(平成7年)の第17回参議院議員通常選挙で与党が敗北すると村山は自民党総裁である河野に政権禅譲を提案。しかし、小渕派会長の小渕恵三が総裁選前の交代を強硬に反対したために実現しなかった。総裁選では、河野は幹事長を三塚派の森喜朗から三塚博に交代するなどして、再選戦略を展開したものの、同じ宮澤派の実力者である加藤紘一が橋本龍太郎を支持したことにより、出馬辞退に追い込まれる。後継の総裁となった橋本が、閣内で通商産業大臣だったこともあり、副総理も橋本に明け渡している(外務大臣職は、内閣総辞職まで続投)。河野は「私の履歴書」で「『平成研(小渕派)と戦って潔く散るか』。こんな意地もないではなかった」と振り返りつつ、直前に妻を病気で亡くし、自身も体調が優れず「気力も体力も残ってはいなかった」と不出馬を決めた理由をつづった。史上初の内閣総理大臣に就任していない自民党総裁となった。また、自民党総裁経験者で、衆議院議長になったのも河野だけである。
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