自民党復党から新進党へ
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1986年(昭和61年)の総選挙で当選した後は宮澤派に所属。文教族としてキャリアを積み、1988年(昭和63年)に発足した竹下改造内閣で文部大臣として初入閣。続く宇野内閣でも文相に留任した。1989年(平成元年)、海部内閣で消費税の見直しが持ち上がった際、辞任した自民党税制調査会長の山中貞則に代わり、後任の税制調査会長に就任。 1990年(平成2年)2月に早稲田大学雄弁会及び三木派の先輩で、同じ文教族である海部俊樹首相の強い意向で自民党総務会長に就任し、党三役入り。幹事長は竹下派の小沢一郎、政務調査会長は安倍派の加藤六月であった。のちに総裁の海部を含めた四人は自民党を離党し、新進党結党に至るが、この時期にその強い関係ができたと思われる。同年12月、党三役にリクルート事件からの謹慎明けの加藤紘一を送り込みたい宮澤派は西岡に総務会長職の交代を求めるが、これを拒否したため、派閥から除名。 政治改革が頓挫したのを契機に海部内閣が総辞職した後、海部を会長とする政治改革推進協議会を自民党に結成。1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙では、自民党から立候補し当選するが、政治改革推進派として執行部批判を強め、梶山静六幹事長が党内の混乱を収拾するために「結束前進の会」を作ろうとしたときはこれを「屋上屋を架すもの」と批判した。結局、西岡は同年12月に自民党を再び離党。改革の会代表、自由改革連合事務局長を経て、1994年(平成6年)に新進党結党に参画し、海部党首実現に動く。国会対策委員長、幹事長を歴任。小沢一郎を補佐するが、1997年(平成9年)に新進党は解党した。
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