自民党接近と連立政権への参加とは? わかりやすく解説

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自民党接近と連立政権への参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:11 UTC 版)

公明党」の記事における「自民党接近と連立政権への参加」の解説

1984年自民党二階堂擁立構想揺れた際には、竹入は鈴木善幸密に連絡取り二階堂首相になった場合には三党で連立を組む構想練られた。二階堂擁立不発終わったが、竹入は「次の機会には上着脱ぎ捨ててでも入っていく」と話した1986年衆参同日選挙自民党圧勝すると、竹入に代わって矢野委員長就任する一方社会党では左派土井たか子委員長就任したため、公明党社会党の距離はますます離れ、両党は競って自民党との連携アピールするうになる1990年前後政界ではリクルート事件などの汚職事件相次いだが、公明党でも関与疑われる議員相次ぐ1989年5月矢野自身スキャンダル引責辞任し、石田幸四郎後任委員長就任する7月第15回参議院議員通常選挙では社会党一人勝ち自民党大敗し公明党議席減らしたねじれ国会となったため野党各党は政権構想相次いで発表し公明党は「石田見解」で社会党に対して大胆な路線変更求めた。 しかし社会党の「土井構想」は相変わらず安全保障否定的で、民社党の「永末ビジョン」は社会党党是真っ向から否定する事実上の「門前払いであったため、連合政権構想はまとまらなかった。1990年第39回衆議院議員総選挙では自民党安定多数確保し野党では社会党独り勝ちとなったため、野党間での話し合い空気消えた石田連合政権協議頓挫について社会党批判し自民社会中道三極体制国会に臨むことを宣言する参議院過半数失っていた自民党にとっては、参議院公明党議席政権運営にとって非常に重要であった自民党幹事長小沢一郎社会党絶縁した公明党接近し連立政権をも暗に持ちかけてきた。小沢カウンターパートである公明党幹事長市川雄一が、後に「キャスティング・ボート握ったことが、公明党変えた」と述懐しているように、公明党個別法案賛否その都度判断する立場をとる。 1991年湾岸戦争に際しては、翌1992年PKO法国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律審議自公民三党による交渉続けPKO法成立にこぎ着けた。この過程市川小沢の仲はより親密なものとなり、この時点市川政界再編公明党解体にすらも踏み込んだ発言始めていた。 1993年小沢らの造反により宮澤内閣不信任案可決し自民党分裂する第40回衆議院議員総選挙自民党半数大きく割り込み社会党新党埋没してやはり大敗喫す選挙後非自民・非共産野党による細川内閣発足する公明党結党29年にして初め与党参画し、委員長石田以下4人が閣僚に就任した市川小沢とともに与党間の政策協議主導したが、小沢運営手法荒さ原因軋轢生じ1年足らず連立政権崩壊した

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