経世致用学派
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柳馨遠(りゅうけいえん、1622年-1673年、号は磻渓)は仕官せずに著述に専念し、『磻渓随録』において農業中心の制度改革を主張した。『磻渓随録』は後に英祖の命によって出版された。 李瀷(りよく、1682年-1763年、号は星湖)の父の李夏鎮は南人で、西人による弾圧によって平安道に配流された。李瀷は幼いときに父が配流先で没し、兄の李潜に育てられたが、兄もまた1706年に刑死した。逆境の中で仕官をあきらめ、百科全書的な『星湖僿説』を著した。李瀷は朝鮮の文人が清を夷狄として明の元号を使い続けている行為を批判し、清支配下の中国を中華文明と見なした。また、李瀷は西学(漢訳された西洋の学問)研究を主導し、リッチ『天主実義』、ディアス『天問略』、アレーニ『職方外紀』に対する跋を書いた。李瀷は地球説に従い、中国を中心とする天下思想を否定した。 李瀷の門弟には安鼎福(1712年-1791年)や権哲身(1736年-1801年)が知られる。安は『下学指南』『東史綱目』『列朝通紀』などを著した。『下学指南』では朝鮮の儒学が理気の説に集中していることを批判し、下学(日常生活の中で聖人の道を実践すること)を重んじた。『東史綱目』は高麗末までの通史で、自国の王朝史を「世家」とする傾向を批判し、朝鮮人にとっては朝鮮こそが本紀であると主張した。また、山崎闇斎の尊皇思想を李瀷への手紙の中で評価した。権哲身は西洋の学問への関心からキリスト教に改宗した(洗礼名アンブロジオ)。 この学派でもっとも有名な人物は権哲身の門人である丁若鏞(1762年-1836年)である。丁若鏞は第三兄(丁若鍾、アウグスチノ)、次兄(丁若銓)とともにキリスト教に入信したが、1791年にキリスト教徒が祖先祭祀を廃止する事件(珍山事件)が起きるとキリスト教から離れた。兄の丁若鍾はその後も布教に打ちこみ、キリスト教を漢文の読めない一般民衆に伝えるために『主教要旨』2巻を全文ハングルで書いた。 丁若鏞も中国中心の天下思想や華夷観を否定した。また「日本考」を著して日本の古学を高く評価し、自らの『論語古今註』に伊藤仁斎、荻生徂徠、太宰春台らの説を引用した。1792年に上疏して城制の改革を主張し、正祖は『古今図書集成』に収録したヨハン・シュレック『奇器図説』を与えて研究させた。水原華城の築城のときに、挙重機と滑車を使って銭四万緡を節約したという。『牧民心書』ほか多数の著書がある。 1800年の正祖の没後、老論僻派が再び力を持つようになった。1801年にキリスト教を理由に李瀷の学派は弾圧され(辛酉教獄)、権哲身や丁若鍾ら140人が刑死し、丁若鏞や丁若銓は流罪になった。これ以降西学は禁止された。
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