経世致用学派とは? わかりやすく解説

経世致用学派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/08 10:04 UTC 版)

実学 (朝鮮)」の記事における「経世致用学派」の解説

柳馨遠りゅうけいえん、1622年-1673年、号は磻渓)は仕官せず著述専念し、『磻渓随録』において農業中心制度改革主張した。『磻渓随録』は後に英祖の命によって出版された。 李瀷(りよく、1682年-1763年、号は星湖)の父の夏鎮は南人で、西人による弾圧によって平安道配流された。李瀷は幼いときに父が配流先で没し、兄の潜に育てられたが、兄もまた1706年刑死した。逆境の中で仕官あきらめ百科全書的な『星湖僿説』を著した李瀷朝鮮文人が清を夷狄として明の元号使い続けている行為批判し、清支配下中国中華文明見なした。また、李瀷西学漢訳された西洋学問研究主導しリッチ天主実義』、ディアス天問略』、アレーニ『職方外紀』に対する跋を書いた李瀷地球説従い中国中心とする天下思想否定した李瀷門弟には安鼎福1712年-1791年)や哲身(1736年-1801年)が知られる。安は『下学指南』『東史綱目』『列朝通紀』などを著した。『下学指南』では朝鮮儒学理気の説に集中していることを批判し下学日常生活の中で聖人の道を実践すること)を重んじた。『東史綱目』は高麗末までの通史で、自国王朝史を「世家」とする傾向批判し朝鮮人にとっては朝鮮こそが本紀であると主張したまた、山崎闇斎尊皇思想李瀷の手紙の中で評価した哲身は西洋学問への関心からキリスト教改宗した洗礼名アンブロジオ)。 この学派でもっとも有名な人物哲身の門人である丁若鏞1762年-1836年)である。丁若鏞第三兄(丁若鍾、アウグスチノ)、次兄(丁若銓)とともにキリスト教に入信したが、1791年キリスト教徒祖先祭祀廃止する事件(珍山事件)が起きるとキリスト教から離れた。兄の丁若鍾はその後布教打ちこみキリスト教漢文読めない一般民衆伝えるために『主教要旨2巻全文ハングル書いた丁若鏞中国中心天下思想華夷観を否定した。また「日本考」を著して日本古学高く評価し、自らの『論語古今註』に伊藤仁斎荻生徂徠太宰春台らの説を引用した1792年上疏して城制の改革主張し正祖は『古今図書集成』に収録したヨハン・シュレック奇器図説』を与えて研究させた。水原華城築城のときに、挙重機滑車使って四万緡を節約したという。『牧民心書』ほか多数著書がある。 1800年正祖没後、老論僻派が再び力を持つようになった1801年キリスト教理由李瀷学派弾圧され辛酉教獄)、哲身や丁若鍾ら140人が刑死し、丁若鏞や丁若銓は流罪になった。これ以降西学禁止された。

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