紅葉館・館主とは? わかりやすく解説

紅葉館・館主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 07:27 UTC 版)

野辺地尚義」の記事における「紅葉館・館主」の解説

こうして女学生囲まれ過ごしていた野辺地第二の人生に、またも変化起きた明治12年1879年)春、西南戦争不平士族反乱が一応収束し、いよいよ自由民権運動起こりはじめてきた頃であった明治初期英学者として有名で後に読売新聞社社長となった実業家子安峻三菱岩崎弥太郎、後に日本鉄道会社社長となった小野義眞などからの勧誘紅葉館総支配人にとの声掛かりだった。紅葉館明治14年1881年開業で、13名の出資経営されていたが、社長制はしかず、諸事万般支配する者を「幹事」とし、野辺地尚義がこの任にあたった紅葉館初期会合としては明治14年1881年3月12日野辺地知友洋学者日本の新聞雑誌先駆者柳川春三追悼が行われた。発起人神田孝平元老院議官日本最初西洋経済学翻訳書著者)、福沢諭吉慶応義塾大学創設者)、福地源一郎岩倉使節団一等書記官)、加藤弘之東京大学総長)、津田真道オランダ留学啓蒙思想家)、津田仙津田塾創設者津田梅子の父)の諸氏だった。 合資会社紅葉館明治26年1893年11月設立された。資本金42,000円で、主要出資者として小野義眞(8,500円)、川崎金次郎(4,200円)、喜谷市郎右衛門(3,500円)、小西兵衛(2,600円)、野辺地尚義中澤彦吉山中隣之助(各2,100円)、安田善次郎(2,000円)らがいた。福沢諭吉明治29年11月1日には「慶応義塾設立の目的」を「懐旧会」において紅葉館演説行っている。「気品泉源知徳模範たらんことを期し中略 以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり」との演説残している。紅葉館建設子安岩崎小野等が考えたのは、後の早稲田大学学長高田早苗によると「当時の上社会人々のために優雅な遊び場所をつくろう」(半峰昔ばなし)というものだった。そのため女中選択厳しかった美人はもちろん、教養のある旧武士の子女採用し芸事特訓をした。紅葉館踊りであり、外国高官たちは、そのあでやかな姿と踊り誰もが見とれたものだったこの女中たちの特訓総指揮野辺地役目であった京都女紅場での経験買われ英会話教育実施している。京都第二の人生、そして東京での第三人生でも野辺地の英語は生きることになったのである尚義明治14年1881年)の紅葉館開業以来29年紅葉館経営者となり、実質的な支配人努め明治民間外交の影の立役者となった紅葉館は、昭和20年1945年)まで60年上続いて運営された。現在その跡地には、東京タワー立っている。往時面影全くないが、7年という短命に終わった鹿鳴館に代わって、明治・大正・昭和三代にわたり、日本の民間外交役割果たしたであった尚義明治42年1909年3月3日風邪こじらせ85歳亡くなった。現在は青山墓地眠っている。

※この「紅葉館・館主」の解説は、「野辺地尚義」の解説の一部です。
「紅葉館・館主」を含む「野辺地尚義」の記事については、「野辺地尚義」の概要を参照ください。

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