紅葉館・館主
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こうして女学生に囲まれて過ごしていた野辺地の第二の人生に、またも変化が起きた。明治12年(1879年)春、西南戦争で不平士族の反乱が一応収束し、いよいよ自由民権運動が起こりはじめてきた頃であった。明治初期の英学者として有名で後に読売新聞社社長となった実業家・子安峻や三菱の岩崎弥太郎、後に日本鉄道会社社長となった小野義眞などからの勧誘で紅葉館の総支配人にとの声掛かりだった。紅葉館は明治14年(1881年)開業で、13名の出資で経営されていたが、社長制はしかず、諸事万般を支配する者を「幹事」とし、野辺地尚義がこの任にあたった。 紅葉館初期の会合としては明治14年(1881年)3月12日に野辺地の知友・洋学者で日本の新聞・雑誌の先駆者柳川春三の追悼会が行われた。発起人は神田孝平(元老院議官・日本最初の西洋経済学翻訳書著者)、福沢諭吉(慶応義塾大学創設者)、福地源一郎(岩倉使節団一等書記官)、加藤弘之(東京大学総長)、津田真道(オランダ留学・啓蒙思想家)、津田仙(津田塾創設者津田梅子の父)の諸氏だった。 合資会社紅葉館は明治26年(1893年)11月設立された。資本金42,000円で、主要出資者として小野義眞(8,500円)、川崎金次郎(4,200円)、喜谷市郎右衛門(3,500円)、小西考兵衛(2,600円)、野辺地尚義・中澤彦吉・山中隣之助(各2,100円)、安田善次郎(2,000円)らがいた。福沢諭吉は明治29年11月1日には「慶応義塾設立の目的」を「懐旧会」において紅葉館で演説を行っている。「気品の泉源・知徳の模範たらんことを期し、 中略 以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり」との演説を残している。紅葉館建設を子安・岩崎・小野等が考えたのは、後の早稲田大学学長・高田早苗によると「当時の上流社会の人々のために優雅な遊び場所をつくろう」(半峰昔ばなし)というものだった。そのため女中の選択は厳しかった。美人はもちろん、教養のある旧武士の子女を採用し、芸事の特訓をした。紅葉館踊りであり、外国の高官たちは、そのあでやかな姿と踊りに誰もが見とれたものだった。この女中たちの特訓の総指揮は野辺地の役目であった。京都の女紅場での経験が買われ英会話の教育も実施している。京都の第二の人生、そして芝・東京での第三の人生でも野辺地の英語は生きることになったのである。 尚義は明治14年(1881年)の紅葉館開業以来29年間紅葉館の経営者となり、実質的な支配人を努め、明治の民間外交の影の立役者となった。芝紅葉館は、昭和20年(1945年)まで60年以上続いて運営された。現在その跡地には、東京タワーが立っている。往時の面影は全くないが、7年という短命に終わった鹿鳴館に代わって、明治・大正・昭和の三代にわたり、日本の民間外交の役割を果たした館であった。 尚義は明治42年(1909年)3月3日、風邪をこじらせ85歳で亡くなった。現在は青山墓地に眠っている。
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