筆者と書風
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高野切の筆者は古来紀貫之(882年 - 946年)と伝承されてきたが、実際は貫之の時代より1世紀ほど後の11世紀中期の書写である。 近代における筆跡研究の進展により、高野切の筆跡は3種に分かれることが明らかにされており、便宜上、「第一種」「第二種」「第三種」と称されている。全20巻を3人で分担書写したいわゆる寄合書(よりあいがき)である。小松茂美は、「第一種」の筆者が巻一、九、十、十一、十二、二十、「第二種」の筆者が巻二、三、四、五、六、七、八、「第三種」の筆者が巻十三十四、十五、十六、十七、十八、十九を担当し、「第一種」はあるいは真名序・仮名序も合わせて担当したのではないかと推定している(二玄社「日本名跡叢刊・高野切第一種」解説による)。 高野切本の現存する巻は巻一、二、三、五、八、九、十八、十九、二十で、残りの巻は失われたものと思われる。このうち、巻五(個人蔵)、巻八(山口・毛利博物館蔵)、巻二十(高知県蔵)の3巻のみが巻物として完存し(3巻とも国宝、ただし第五巻は二首が切り取られて断簡として現存)、巻一、二、三、九、十八、十九は断簡として各所に分蔵されている。巻一の巻頭部分の断簡は東京・五島美術館、巻九の冒頭部分の断簡は大阪・湯木美術館の所蔵である。
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筆者と書風
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大聖武は聖武天皇筆と言われていた。この伝承は古く、『実隆公記』や国宝前田本第3巻別紙奥書から永正年間にはすでに存在したことがわかる。しかし、大聖武の書風は聖武天皇宸筆とみられる正倉院宝物の「雑集」と書風がまったく異なるため、現在ではほぼ問題にされていない。 この写経は一人の筆者によって写された一筆経である。筆者は不明だが、脱字脱行などが認められることから、厳格な写経所における書写だとは考えにくい。字詰めは1行9字から15字と不定だが、おおよそ12字程度で書かれており、1行17字で書かれる一般的な写経に比べ字粒は大きい。その書風は堂々、気宇雄大、重厚謹直などと形容されるもので、一般に北魏の龍門造像記、特に始平公造像記との類似が指摘されている。しかし、北魏をふくめ六朝時代の大字経の遺品は見つかっておらず、大字経が書かれるのは唐代に入ってからだと考えられている。そのため角井博は、大聖武の筆者は龍門式書風の系統をひく人ではないかと推測する一方で、多肉多骨の豊かな書風が展開される中唐という時代を背景にして生まれた感覚ではないかとも言う。樋口秀雄も、隋・初唐の頃に比べ極端に肉がついた中唐の書風を汲んだものと捉えている。また川上貴子は、大聖武は顔真卿の早期の作である多宝塔碑(752年)と筆線や結構が酷似していると指摘する。なお、顔真卿は北魏の書法を学んだと言われており、間接的に始平公造像記の影響があることは否定していない。 大聖武の字の特徴として、補筆をしているということも挙げられる。点画の一部を手直ししたなぞり書き(いわゆる「ちょうちん屋」)をしている箇所が随所に認められるのである。これについて角井は「筆者の造形的美意識に叶わないのでナゾリ書きして形を整えた」と推定、川上はその造形的美意識の内容について「筆線に重厚感を出すため」ではないかと言う。また、川上は、補筆を除いた大聖武の字の形や大きさは、他の大字経(龍光院ほか蔵の大字法華経、センチュリー文化財団ほか蔵の註楞伽経)に酷似しているとも指摘している。 天平勝宝9年(757年)の首楞厳経(山辺諸公写)、また天平宝字3年(759年)の増一阿含経や中阿含経(一難宝郎ほか写)など、奈良後期の写経は前中期と異なり力強く肉太の筆線が見られる。これについて角井は、遣唐使によってもたらされた当時の唐の書風の影響を示唆するが、田中塊堂は写経生の山辺諸公や一難宝郎は大聖武の影響を受けていると言う。
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