第4次攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 23:24 UTC 版)
中共軍は無名高地を確保し、兵力を増強して駱駝稜線と395高地を遮断しようとした。国連軍の制圧射撃を受けても無名高地の兵力を2個連に増強させ、第9師団は前哨陣地との接続を維持するため無名高地の中共軍を駆逐することにした。第30連隊は予備隊である第3大隊を投入し、第3大隊は第9中隊と第10中隊を主攻にして午後2時頃に攻撃を開始した。攻撃を予想していた中共軍は韓国軍の攻撃と同時に砲撃を開始し、暁星山の野砲と396高地と500高地から発射される直射火力であり、また無名高地の2個連は拠点を固守する覚悟で必死に抵抗した。米第5空軍所属のF-80とF-84の各1個編隊が6回にわたって上眞明洞-500高地-暁星山一帯の砲陣地に3000ポンドの爆弾を投下し、無名高地には機銃掃射とナパーム弾を浴びせた。また第53戦車中隊の1個小隊は牛尾洞付近の道路に進出し、無名高地を強打した。国連軍の強力な支援火力にもかかわらず、中共軍は長松洞近辺の地形を利用して1個排が殲滅されると2個排を補充して抵抗した。やがて午後8時30分に第3大隊は撤収した。 午後3時30分に第340団と交代した第112師第334団が駱駝稜線の第11中隊に圧力を加えてきた。第11中隊は陣地を固守していたが、やがて補給や通信が途絶え退路も遮断されて極限状態に置かれ、さらに4回にわたる交戦と砲撃によってかなりの損害を被り、弾薬の不足と給水問題が重なり深刻な状況となった。中共軍の兵力が南に移動し、午後5時以降は味方の攻撃が中断され、第11中隊は戦意を喪失して射撃は鈍くなり、前線離脱者が増えて防御陣地に亀裂が生じると混乱が生じた。影響は中隊全部に広がり、陣地が瓦解すると中隊長は「自己最善を尽くして395高地南に集結せよ」と命じ、第11中隊は包囲網を突破して撤退したが、翌8日朝に味方陣地にたどり着けた兵力は中隊長含む2個分隊だけであった。 駱駝稜線が喪失することで第1大隊の主峰防御は危機に瀕し、中共軍は駱駝稜線を足場にして395高地を攻撃した。第334団はそれまでの攻撃部隊とは異なり、395高地だけを狙うように火力と兵力を集中させて強力な攻撃を加えてきた。約2時間の激戦の末、395高地は中共軍に確保された。衝撃を受けた師団長は、部隊交代が必要だという判断のもとに、第30連隊は戦列を整備して中共軍の突破口拡大を阻止することに総力を傾け、第28連隊を進出させて陣地を回復した後、両連隊を現地で交代させることに決定した。 この時、頂上にあった米軍観測所のアダムス(Joseph C. Adams Jr)中尉の観測班は、まだ撤収せず掩体壕に位置していた。状況を把握すると、第213砲兵大隊に自身の掩体壕を目標に陣内射撃を要請した。第213砲兵大隊は韓国軍砲兵に追加火力を要請して、155ミリ曲射砲と作戦統制された8インチ曲射砲、韓国軍の105ミリ曲射砲を高地に集中させ、中共軍は大きな損害を受けた。 第9師団は10月8日午前2時付で「作戦指示第65号」を下達。指示が通達されたとき、第28連隊第1大隊は6日午後11時30分付で第30連隊に配属されて以降、395高地南東側陣地を防御しており、第28連隊の3個大隊のうち、作戦に使えるのは第2、3大隊だけであった。反撃には第2大隊が使用され、8日午前0時40分に攻撃を開始した。右第一線に第5中隊、左第一線に第6中隊、第7中隊を予備とし、第5中隊は稜線に沿って395高地正面を攻撃して、第6中隊は渓谷に沿って進出し、第7中隊は第6中隊に後続した。中共軍の抵抗は小さくなく、第5中隊の攻撃は8合目から3回阻止された。しかし西側稜線から進出した第30連隊第1大隊が側方から第28連隊第2大隊を支援すると第2大隊の攻撃は活気を帯びるようになり、8日午前2時40分に395高地を奪還することに成功し、同日に第28連隊と第30連隊の部隊交代も完了した。第28連隊は直ちに敵の反撃に備えて陣地を強化した。この戦闘での中共軍の損害は大きく、後に捕虜は攻撃に参加した中隊の多くは戦闘の2日後には20名未満に減少したと証言した。 3日目までに他方面の中共軍の迂回攻撃は減少し、395高地の攻撃に集中した。中共軍の火砲と迫撃砲は歩兵を支援するため、1日あたり平均4,500発の砲撃を行い、攻撃を再開するために新しい部隊を集結させていた。
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