竽斎石坂宗哲
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甲府の藤原家に生まれる。幼名は文和、永教、号は竽斎。後に石坂家が江戸の大火(後述)にあったせいか幼少の頃はほとんど記録がない。石坂家二代目、石坂宗鐵の長男が幼くして病弱となり後継ぎが出来ないので文和を養子にしたいと依頼する。文和は当時5歳ごろとおもわれる。養祖父石坂志米一、養父石坂宗鐵は共に杉山流鍼治導引稽古所(世界初の盲人教育機関)で鍼術、導引、按摩を学ぶ。文和も同所で鍼灸、導引、按摩を学ぶ、教科書は初等科では杉山流三部書(療治之大概集、選鍼山要集、医学節要集)中等科では中国古典鍼灸、内経、難経など、また鍼管法、杉山真伝流の表之巻を学ぶ。高等科では杉山流を他人に伝授する教育を受ける。杉山真伝流、目録之巻物一巻、真伝流中之巻、奥龍虎之巻を学び、終了時には門人神文帳が伝授される。1796年(寛政8年)12月22日、小普請医となり、鍼科と漢方科の教育機関の創設を命じられ金二十両を賜り甲府へ赴任し、翌1797年(寛政9年)6月、甲府医学所を興す。初年度に200人以上の生徒が全国から集まる。教育内容は西洋解剖学、生理学を含み現在の鍼灸教育の先鞭となる。また漢方医学科を設けられ校内に3000坪の薬園があった。 1799年(寛政11年)8月5日、妻の高子が没、1800年(寛政12年)に頭取の宇佐美道茂が病で急死。同年5月15日、任務を果たして甲府より江戸に戻る。なお甲府医学所は明治元年まで東洋医学の教育と治療を行った。1802年(享和2年)11月22日、寄合医師に進み、禄百俵を給せらる(この時、御目見以上の身分になったものと推定される)。なお1803年(享和3年)に奥医師(鍼科)に進んだものと考えられ、1812年(文化9年)9月11日将軍徳川家斉に拝謁(その時家斉は、「私の祖父の命で一橋家から将軍職を絶やさないように沢山の子を持つように」と言付けられた、そして「そちの鍼を打つことで子宝を授かることが出来るか」と尋ねた。宗哲は「出来ます」と言う)。同年12月16日、法眼に叙せられ録二百俵を給せられる。 文政年間には、後述するようにフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと交流し解剖学を学ぶ、そのことから「シーボルトの弟子」と記載される例もある、またシーボルトに鍼を教えていたのは宗哲であり、そういう意味ではシーボルトの師匠(シーボルトおよび宗哲双方にその意志は無いが)というのがふさわしい。シーボルトが江戸参府をした時に宗哲と面会する、シーボルトは宗哲に、「私の腕に鍼を打ってくれるように」と頼む、宗哲は子の宗貞に鍼を打たせた。シーボルトは痛くもなく、炎症もおこらなかったので感心した。そしてシーボルトは「それでは貴方の腕を切って繋いで見せましょう」と冗談を言ったが、宗哲は愚弄されたと思った。なお、シーボルトが帰国する1829年10月(文政12年9月)の直前、「文政十二年三月廿一日の大火記録」によれば「類焼卸医師」の住所氏名に「石坂宗哲 同宗貞」とあり、火災に遭っているようである。シーボルト帰国後は、私塾,定理医学書屋、出版部 1804年(文化元年)には陽州園を設立して後進の指導に当たった。1841年、隠居。子の宗貞が先に没していたため、孫の宗元が継いだ。1842年1月1日(天保12年11月20日)死去、深川増林寺に葬られる。 石坂氏は元文年間より江戸幕府に仕えていたが、『寛政重修諸家譜』編纂時点では御家人身分であったため同書には掲載されていない。また、宗哲は世襲名で子孫も襲用しており、そのため伝記には混乱が見られるので注意を要する。
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