竿打ちと義民樋山文駄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 01:18 UTC 版)
江戸時代、検地の際に間竿(けんざお)と呼ばれる竿で田畑の面積を測量していた。この検地のことを楢下の位置する地域では竿打ちと呼ばれていた。間竿は1間を測るもので、江戸幕府では6尺1寸を1間としていた。楢下でも例に倣って、1655年(明暦元年)上山城主土岐山城守の時代から6尺1寸を1間としていた。しかし、1771年(明暦8年)の城主松平信享時代に5尺9寸を1間とする厳しい竿打ちが強行された。また、それまで洪水により荒れていたため無年貢地となっていた田畑を年貢地に復活するとし、村民は苛酷な仕打ちを受けた。そこで村民の樋山文駄が立ち上がり幾度となく願書を差し出した。この尽力により、どうにか苛酷な竿打ちは阻止された。しかし1773年(安永2年)、樋山文駄は24歳という若さで処刑された。文駄の辞世の句は次の通り。 上下のためになるわれならば むじつと死てもおしくあるまじ この句は平林(台の上)に建立された文駄の墓の背面に刻まれている。
※この「竿打ちと義民樋山文駄」の解説は、「楢下」の解説の一部です。
「竿打ちと義民樋山文駄」を含む「楢下」の記事については、「楢下」の概要を参照ください。
- 竿打ちと義民樋山文駄のページへのリンク