立教大学と大隈重信(長崎から続く歴史)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:57 UTC 版)
「立教大学」の記事における「立教大学と大隈重信(長崎から続く歴史)」の解説
大隈重信は、幕末に長崎でチャニング・ウィリアムズから英語、数学など英学を学び、のちに東京専門学校(現・早稲田大学)の2代目校長となる前島密らとともに立教大学創設者ウィリアムズの最初の弟子の一人であった。大隈はウィリアムズの盟友のグイド・フルベッキにも英語を学んだ。ウィリアムズとフルベッキは共に長崎洋学所で教鞭を執った。当時の教材は新約聖書や合衆国憲法に加え、アメリカ独立宣言であった。独立宣言の「人は平等に生れ、生命と自由と幸福の追求は天与不抜の権利である。」との声明は、近世封建社会下にあった日本の青年の心に火をつける。かくして、大隈は日本の政治上の近代化のために大志を抱くこととなり、生涯に渡って大きな影響を受けることとなった。アメリカ独立宣言起草者のトーマス・ジェファーソンはアメリカでハーバード大学に次いで2番目に古い歴史を持つ、ウィリアムズが卒業したウィリアム&メアリー大学の卒業生でもあり、ウィリアムズにとっても同郷バージニア出身の立志伝中の英雄であった。大隈は、「ジェファーソンは、合衆国に民主主義の政治を実行するためには、青年を教育することの必要を感じてバージニア大学を設立した。ジェファーソンと同じ考えで、早稲田大学を創設した。」と語っている。ジェファーソンの「人間精神の無限の自由」は、立教大学では『自由の学府』に受け継がれ、早稲田大学では建学的基本精神なる『学問の独立』に受け継がれている。 立教大学も早稲田大学も、ともに長崎に源流を持つ。大隈は、長崎洋学所に加え個人的にウィリアムズとフルベッキから英学を学んだ後、1867年(慶応3年)、同じく長崎で早稲田大学の源流となる佐賀藩の英学校「蕃学稽古所(翌1868年に致遠館と改称)」をフルベッキを教師に迎えて開設のために尽力したのち、教頭格として指導にあたったが、立教大学の源流も1859年(安政6年)にジョン・リギンズとウィリアムズが長崎に開設したプロテスタント初のミッションにあり、両大学ともに幕末の長崎からの歴史をこれまで繋いできたのである。ウィリアムズもフルベッキも来日後、同じ崇福寺に住み、その後、外国人のために整備された長崎・東山手外国人居留地でも、それぞれ五番館と三番館と近所に居を構えた。1862年(文久2年)に、東山手居留地内(11番地)に設立された日本で最初のプロテスタントの教会である英国聖公会会堂の初代チャプレンをウィリアムズが務め、2代目チャプレンはフルベッキが務めた。坂本龍馬が中心となって結成した亀山社中や、長州藩の伊藤博文や井上馨とも取引を行ったグラバー商会も隣接する大浦居留地の2番にあり、トーマス・グラバーは英国聖公会会堂の管理人の一人であった。大隈も他の志士と同じようにウィリアムズとフルベッキの住居にも通い、教えを乞うたことであろう。ウィリアムズを訪れる日本の志士は、公式な訪問を避けるために、夜間に訪れるなど、秘密裏に情報交換をすることもあった。後年、大隈は1919年(大正8年)に開催された立教大学池袋校舎落成式に来賓として出席する。そこで長崎時代から続く大学創設者ウィリアムズと結ばれた師弟関係から、立教大学との縁故に及び、さらに50年来の日米両国人の交誼を説く演説を行った。大隈が立教築地キャンパスの形成に尽力したことは立教大学との縁故の一つである。アメリカ合衆国式のカレッジを日本に建設するとの計画のもと、新たな施設建築のため、土地を必要としていたウィリアムズの要請を受け、大隈は、1888年(明治21年)から枯渇状態であった築地居留地の予備地の造成に尽力し、ウィリアムズが計画した学校、教会、病院からなる米国聖公会のキャンパス拡張に大きく貢献したのである。大隈は早稲田大学を創設した人物であるが、立教大学にとっても創生期の発展に貢献した重要な人物であった。
※この「立教大学と大隈重信(長崎から続く歴史)」の解説は、「立教大学」の解説の一部です。
「立教大学と大隈重信(長崎から続く歴史)」を含む「立教大学」の記事については、「立教大学」の概要を参照ください。
- 立教大学と大隈重信のページへのリンク