空冷発動機への換装
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三式戦闘機二型の実戦化が遅々として進まない段階において、川崎の工場内にはエンジンの装着されない三式戦闘機が並べられているのが常態化していた。この状況から、航空審査部飛行実験部長の今川一策大佐らは、1943年末頃に早くも三式戦闘機の空冷化を提案している。これはキ61-II、最初の8機の試作が完成した頃から既に行われていた提案であった。つまり、母体となったキ61-IIの完成前から、既に五式戦闘機の計画が存在していたのである。 設計主務者の土井にとっても首無し機が並ぶこの状況は受け入れがたいものであり、三式戦闘機の空冷エンジンへの換装を考慮したこともあった。1944年初期にはかなり空冷化に気持ちが傾いていたとされる。しかし、同じ川崎の明石工場ではハ140の生産に心血を注いでおり、これは提案できる状況ではなかった。 また、海軍はハ40と同様にDB601をライセンス生産したアツタを愛知航空機に生産させ、彗星艦上爆撃機に搭載していたが、これの性能向上型であるアツタ32型(離昇出力1400馬力)もやはりハ140と同様に量産に苦労しており、彗星の空冷化が考えられていた。これを知った航空本部総務課の技術主任である岩宮満少佐は、土井に対し、三式戦闘機のエンジンを、一〇〇式司令部偵察機で実績のある1500馬力級空冷星型エンジン、ハ112-II(詳しくは#ハ112-IIを参照)に換装するよう提案する。土井は既に覚悟を決めていたのか理解を示したようであるが、話はうまくは進まなかった。この原因に関し、渡辺 (2006)の説に拠れば、三式戦二型の空冷化を図れば、ハ140を生産している川崎航空明石工場は当面生産ラインが遊ぶこととなり、これを軍需省が問題としたらしい。またハ112-IIの供給も潤沢とは言えない状況であった。最後に土井も懸念した、川崎明石工場各位への「人情」が挙げられた。 だが1944年4月、今川大佐は水冷エンジンの戦力化に見切りを付ける決心を固め、川崎に対して内密に空冷化を打診した。8月または9月には三式戦闘機二型が100機程度で生産を打ち切ることが決定された。軍需省は1944年8月の二型の生産縮小の後、1944年10月1日、川崎に対し、首無しの三式戦に空冷発動機を搭載したキ100の開発を指示した。古峰(2007)の文献によれば、指示の時期は川崎航空機工業株式会社『航空機製造沿革』において11月とも記載される。前掲文献によれば、この月の首無し二型の在庫は68機であった。空冷化にあたり選定されたエンジンは金星62型、陸軍名称ハ112-IIであった。これはハ140と同様の離昇出力1500馬力級エンジンであるが、空冷星型14気筒の構造を持ち、栄よりやや大型で、直径は1218mmである。 なお古峰 (2007)は、キ99とキ101の試作指示が1943年7月9日に出されていることから、キ100もこの頃には既に機体番号を与えられ、ある程度の検討が成されていた可能性を指摘している。
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