税制・兵制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)
唐の税制は北周以来の均田制・租庸調制であり、兵制は府兵制である。この両制度は相互不可分な制度である。 均田制は全国の丁男(労働に耐えうる青年男性)一人につき、永業田(相続可能な土地)が20畝まで認められ、口分田(死亡や定年60歳になると国家に返却する)が割当可能な範囲で80畝まで支給される。また官職にある者は職分田が与えられる(これは辞職した時に返却する)。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・道士などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている。 田地に対して、租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両を収める。年間20日の労役の義務があり、免除して貰う税は庸と呼ばれ、労役一日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。 府兵制はこれらの戸籍に基づいて3年に1度、丁男に対して徴兵の義務を負わせた。 均田制・府兵制の両制度の実施には戸籍が必要不可欠であるが、武則天期になると解禁された大地主による兼併や高利貸によって窮迫した農民が土地を捨てて逃亡する(逃戸と呼ばれる)事例が急増し、また事前通告なしでの土地の売買を解禁したため戸籍の正確な把握が困難になった。また、華北地域では秋耕の定着による2年3作方式が確立され、農作業の通年化・集約化及びそれらを基盤とした生産力の増大が進展したことによって、期間中は農作業が困難となる兵役に対する農民の負担感が増大していった。かくして均田・租庸調制と府兵制は破綻をきたし、代わる税制・兵制が必要となる。 辺境において実施された藩鎮・募兵制は、府兵制は徴兵により兵役に就かせたのに対して、徴収した土地の租税の一部を基に兵士を雇い入れる制度である。710年に安西四鎮(天山山脈南路の防衛)を置いたのを初めとして719年までに10の藩鎮を設置している。当初は辺境地域にしか置かれていない。 しかし安史の乱後は内地にも藩鎮が置かれた。地方の藩鎮は唐に対する税の貢納は行っていたものの徐々に自立色を深めていき、最終的には藩鎮により唐は滅ぼされることになる。 780年に施行された新しい税制は、それまで資産に関らずに定額を課税していたものを、財産に応じた額に改めたものである。夏(6月)と秋(11月)の年2回徴収するので、両税法と呼ばれる。夏に納めるのは麦であり、秋に納めるのは粟と稲である。税額は一定せず、その年に使われる年間予算を基に税額を各地に割り当てた。 かつて安禄山軍から投降した3人の武将に授けた節度使職を元とする、成徳軍・盧龍軍・天雄軍の3つの藩鎮は特に反中央の傾向が強く、節度使の地位を世襲化し中央に納税しなかった。この3つを河朔三鎮と呼んでいる。憲宗は藩鎮を抑制する為、反抗的な藩鎮に対して討伐を加えた。 藩鎮では多くの騒乱が発生したが朝廷へ反旗を翻した例は僅かで、大部分は不満を持った驕兵悍将と呼ばれる兵士・下士官が上司たる節度使を追放する目的で行われた。このような兵乱の代表が康全泰の乱(858年)である。兵乱はあくまで自分達の利権を守るのために背いただけで、ほとんどは唐政府に妥協し、大規模なものになる前に鎮圧された。 しかし、羨余などの税収以上の民衆からの収奪を行う節度使と、羨余のさらなる献上を奨励する唐政府のため、民衆の生活は困窮するばかりであった。そのため、裘甫の乱(859~860年)という民乱(民衆が中心の反乱)が起きたが、地主・大商人層が唐政府についたために、鎮圧された。また、龐勛の乱(868~869年)は初めは兵乱として始まったが、後に多数の農民が参加して民乱と化した。最終的には、龐勛の乱は地主・大商人層が離反したため、敗北する。龐勛の乱は、黄巣の乱(874~884年)の前段階と言え、黄巣の乱は初めから民乱として出発する。
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