程錫庚暗殺事件
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1939年夏、天津事件で日英関係の大危機が発生した。1939年4月9日、日本が所有する華北の中国聯合準備銀行の管理者であった程錫庚が天津の大劇場で中国人国家主義者たちによって暗殺された。程錫庚を殺害した爆弾攻撃では、劇場内で偶然に程錫庚の近くに座っていた無関係の人も巻き添えとなって数人死亡した。日本は、イギリス租界に住む6人の中国人男性が暗殺に関与したと非難した。地元のイギリス警察は、6人のうち4人を逮捕し、拷問をせずに5日以内に英国の管理下に戻すという約束の下で、日本に引き渡した。拷問を受けて、4人のうち2人は暗殺への関与を自白した。自白は拷問により得られたものであるが、地元のイギリス警察は被告人が暗殺に関与したと結論付けた。4人の男が英国の管理下に戻ると、蔣介石の妻である宋美齢が重慶のイギリス大使のカー卿に対して、被告人の暗殺者は抵抗活動に関与した中国の工作員であることを知らせて、被告人が日本に返還されて処刑されるのを防ぐロビー活動を行った。地元のイギリス領事であるジェミーソン氏は、事件の詳細、中でも告発された暗殺者を引き渡すことを彼が日本人に対して約束した事実について、イギリス政府に十分な情報を提供していなかった。イギリス外相ハリファックス卿は、自白が拷問によって得られたと聞いて、告発された暗殺者を日本に返還しないように命じた。 天津駐在の日本陸軍第27師団長の本間雅晴中将はイギリス人から友好的であると見なされていたが、北支那方面軍の参謀長が山下奉文中将は中国における西洋の租界を全廃する主張の信奉者として知られていた。1939年初頭以来、山下は、天津のイギリス租界の廃止を主張し、イギリスが暗殺者とされる人物の引き渡しを拒否すると、租界の封鎖を命じるよう東京の上司を説得した。 1939年までに、日本人の間では、中国を動かし続けているのはイギリスの経済支援であり、物事を前に進めるにはイギリスとの対決が必要であるとの確信が高まっていた。日本の外務省の秘密研究での議論によれば、中国全体が日本の影響範囲内に入るのを許すということは、アジアにおけるイギリスの影響力が実質的に終焉することを意味する。日中が組み合わされば、それはアジアを支配する巨象となる。つまりイギリスの観点からみれば、中国が敗北することは許容できないということであり、したがって外務省がイギリスの政策を変化させられる可能性はまずなかった。米英が共同所有している上海の国際居留地とは異なり、天津のイギリス租界であれば、英米両国と一度に対立することは回避できるから、まさにおあつらえ向きであり、日本は1939年初頭にはそれを封鎖することをすでに決定していた。イギリスにとっての更なる問題は、通常ならば租界の警察は中国人容疑者を天津警察に引き渡して中国の裁判所で裁判にかけられるものとされていたのだが、イギリスは、名目上は天津警察を支配している南京の汪兆銘政権を承認していなかったため、租界の警察は、ロンドンが中国政府として承認していない政権に属する警察へ中国人容疑者を渡すのをやめていた。租界の警察に捕らえられれば地元の牢獄に入れられるが、日本に捕らえられて拷問されて処刑されるよりはまだましなため、多くの「軍統」工作員はイギリス租界を拠点として工作活動を行うようになっていた。日本の汎アジア主義の宣伝によれば、平和、繁栄、兄弟愛によりアジアの全ての人々を団結させると言われていたが、中国人たちは日本よりもイギリスの囚人になることを好んだ。 同時に、1938年後半からのドイツ外務省との交渉において、防共協定を反英軍事同盟に転換するというドイツの要請に対して、日本は反ソビエト軍事同盟にのみ署名することを主張して、日本外務省が拒否していたという事実は、日本がまだイギリスとの戦争へ進む準備ができていなかったという事実を反映している。ドイツ海軍は英国との戦争準備ができるまでに、まだ数年かかるため(ヒトラーが1939年1月に承認したZ計画は、ドイツ海軍に対して1944年までに王立海軍との戦争準備を整えるよう要求していた)、ドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップは、ドイツの海軍の弱さに対する最良の補償として、日本のような強力な海軍力を持つ国との同盟を望んでいた。
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