租界の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 19:14 UTC 版)
中国(清朝)が阿片戦争でイギリスに敗北し、「南京条約」によって上海が開港させられた。しかし、この「南京条約」では、イギリス領事が駐在すること、貿易に従事するイギリス人が居住することは認めたが、居住する地域については定められていなかった。翌1843年10月の英支虎門塞追加条約において、双方の協議を以て具体的な地域を決定するとされたことから、英国は同年11月8日に在清国英上海領事ジョージ・バルフォア(英語版)を着任させた。バルフォアは上海市内で邸宅を借受け、11月14日に英国領事館の業務開始を発表、11月17日に上海の開港を公式に告知した。しかし、この開港とともに英国商人らの渡来も増加し、英国人用の居住設備が急がれた。 「南京条約」から2年後の1845年11月に当時の上海道台(中国語版)(地方長官)宮慕久(中国語版)が初代イギリス領事であるバルフォアと度重なる協議の結果、イギリス商人の居留地として黄浦江のほとりに、およそ0.56平方キロの土地の租借を定める『第一次土地章程』(Land Regulations)を頒布した。上海県城の外で外国人の居留地を作ることは、むろん元々はイギリス側の要望によるものであった。協議の前提として、英国は土地章程の公布を条件とした。土地章程では、英国領事館が同区域内での土地登記の公的実務を担うとともに、管理区域内での事件などに関する司法権も規定された。土地登記などの実務は、居住英国人の中から選挙された2名と領事を議長とする計3名が実務を担った。 しかし、『第一次土地章程』で規定されている「華洋分居」などの条文からもわかるように、実質的には中国側が外国人の活動範囲を制限しようとした、一種の隔離政策でもあった。1844年締結の望厦条約をうけて、1846年に米国から在清国米上海領事が赴任した。そして、このイギリス租界の成立の影響を受けて、1848年にアメリカ租界、その翌年にフランス租界がそれぞれイギリス租界の北側(呉淞江対岸である虹口一帯)と南の境界線である洋涇浜(中国語版)の対岸に設置された。これら三つの租界が、そのまま「近代都市」上海の原型となった。 ところが、「華洋分居」を原則とし、一定の自治権を持ちながらも、根本的には中国側の管轄下にあったこれらの租界は、設立から10年もたたないうちに、その性格を変えた。原因の一つが1853年9月に起きた秘密結社・小刀会の武装蜂起であり、農民軍の1年半にわたり上海県城を占拠したため、大量の難民が発生し、三つの租界に逃げ込んだ。この突然の事態で、従来の「華洋分居」の原則が崩れ、「華洋雑居」の現実を中国側も受け入れざるを得なくなった。この新しい局面に対応するためという口実のもとで、1854年7月、イギリス領事オールコックは、米仏領事とは協議はしたものの、中国側には事後通告という形で、一方的に従来の『土地章程』を修正した『第二次土地章程』を公布した。 この『第二次土地章程』には、イギリス租界の新たな境界の確定、租界内の中国人雑居の黙認、「巡捕」(警察)の設置が含まれていた。最も重要な変更は、三国領事による、「租主(借地人)会議」(市議会にあたる)の招集、その執行機関としての工部局の設置である。特に、工部局に「市政府」としての機能を持たせたので、その成立により、租界は中国政府の管轄から完全に離れ、自ら「自治」を始めた。工部局はインフラ整備を通じて中国側に無断で租界の範囲を拡大するだけでなく、徴税権や警察権までをも行使するようになり、法的根拠の無い状態でなし崩し的に上海での支配を拡大していった。
※この「租界の誕生」の解説は、「上海租界」の解説の一部です。
「租界の誕生」を含む「上海租界」の記事については、「上海租界」の概要を参照ください。
- 租界の誕生のページへのリンク