租界拡張と越界路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 19:14 UTC 版)
工部局は中国側に無断で繰り返し租界の拡張を行ったので、中国側もこれに対抗し主権を守ろうとした。1900年に閘北工程総局を設立し中国側が自ら都市開発に乗り出すことで共同租界工部局に対抗、1908年に工部局が閘北の租界編入を要求した際には閘北の商人や市政組織が反対運動を起こし、1914年の交渉においても世論の反対が強く閘北は租界に編入されなかった。このように租界の無断拡張に危機感を持った中国側が交渉を拒否し始めたので、工部局は租界拡張の新たな手段として越界路の建設を進めた。 まず最初に越界路は租界の外にある公園や学校への交通路として作られたが、工部局は本来なら法的に租界外である越界路では行使出来ないはずの警察権を、道路周辺の治安維持や交通整備という名目で行使し始めた。むしろ学校や公園は越界路を敷設し租界を拡張するための代用手段として用いられることがあった。当時の中国側は辛亥革命の混乱や南北講和の対応に忙殺され越界路の問題にまで手が回らず、工部局は混乱に乗じてなし崩し的に租界を無断で拡張し続けた。当初は越界路だけに警察権が及んでいたが、徐々に周辺地域や接続する路地にも影響力を行使し、最終的には越界路で囲まれた地域全体を支配するようになった。こうして上海に敷設された越界路は合計で70㎞を超え、越界路で囲まれた土地は約8000エーカーにもなった。越界路の拡大はその建設と維持費用の問題を生み出したので、工部局は新たな財源として水道や電気といったインフラ整備に伴って越界路における徴税権も行使していった。工部局側のこれらの行動は法や条約に基づいていなかったので、当然中国側からの度々の抗議を受け中国警察と租界警察との衝突事件が発生し、こうした事件は中国人の民族意識を刺激し五・三〇事件の一因となったと言われている。そして1927年に国民党政府による上海特別市が設立されると中国側は本格的に上海の租界回収に動きだし、共同租界側との対立が尖鋭化していった。 工部局による越界路の違法な拡大はその後も続いたので、それを防ぐために上海市政府が「守望所」を設けた。拡大する越界路を防ぎ中国の警察権を確保するために警備の「第六区」に5か所、第六区第一所に5か処、第二所に3か所の合計 13カ所に「守望所」が設置され、警察4名をもって二班に分け、巡回させる制度が1933年9月から実施されたという。
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