租界の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 19:14 UTC 版)
諸外国によって租界は何度も不法に拡張され、面積的には最初は1.22㎢だったが最も拡大した時期には32.82㎢に達した。また、租界から外に向けて伸ばされた越界路だけでなく、その越界路で囲まれた土地全体も不法占拠されたので、それらを合計すると約65㎢にもなり、これは当時の上海地域の13%にも相当した。 上海の中心部ともいえる共同租界の中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に各国の領事館や銀行、商館が並び、これに直角に交わる南京路には、ビック・フォーと呼ばれる先施公司(中国語版)、永安公司(中国語版)、新新公司(中国語版)そして大新公司(中国語版)といった、1920年から1930年の上海を代表するデパートが立ち並んだ。 同じくバンドに直交する福州路には青蓮閣を代表とする茶館(中国語版)や妓館の集中する会楽里(中国語版)があった。バンドにおける建築ラッシュは、1890年代に始まり1940年代まで続くが、建築物の設計にあたっては、当時の欧米各国でも最高の水準にあわせて設計され、様式上もいささかも中国風のデザインを取り入れなかった。 この時期に建設された建築には、江海関(1927年落成)、キャセイ・ホテル(1929年竣工)、ジャーディン・マセソン商会ビル(1920年竣工)、横浜正金銀行(1924年竣工)などがある。 フランス租界は淮海路を中心に商店街が形成されたが、同時に茶館、妓館、アヘン窟が集中した。1920年代共同租界においては、「禁娼」「アヘン吸引禁止」「禁賭」が唱えられたが、フランス租界では依然法的に認められていたためである。共同租界の北区と東区(旧アメリカ租界)においては、ほとんどの地域を日本人に占領されていた。とりわけ虹口(ホンキュウ)地区は、別名日本租界と呼ばれるほど、日本の諸施設や日本人向けの商店が集中した。 租界における行政機関としての上海市参事会とその執行機関としての工部局といった存在の他に、上海の歴史を語る上で忘れてはならない存在は、青幇(チンバン)と呼ばれる秘密結社である。もともとは大運河の荷役労働者の結社を源流とする。租界都市として繁栄する上海においてアヘン販売と賭博場の経営を資金源とした。孫文らの革命組織にも援助を与えていた。白人大班(外国商社の支配人らを指す)が主流の工部局、列強国の領事館とともに秘密結社は上海支配の鼎の三本脚であった。 その青幇の大頭目が1930年代の夜の帝王と呼ばれた杜月笙(1888年ー1951年)である。黄浦江対岸の浦東の貧民街に生まれ、幼くして両親と死に分かれた。1902年、14歳のときに黄浦江を渡って上海に出てくると果物店の丁稚となった。店頭で「萊陽梨!」(ライヤンリー;中国梨)と声をかけていたため、「萊陽梨」とあだ名が付けられ、帝王と称されるようになっても、昔の仲間に「ライヤンリー、梨を剥いてくれ」と頼まれると、鮮やかな手つきで皮むきをしてやったという。 やがてアヘン売買で頭角を現し、1927年の4.12反共クーデターの際には国民党の蔣介石に加担して中国共産党に対して大粛清を加えている。その一方で、米英やフランス当局を差し置いて夜の上海租界を支配した。昼間は欧米人の支配を許すも、夜ともなれば青幇が中国政府に代わって非合法に上海租界の支配を奪い返したといえる。
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