科学技術とイデオロギーの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 10:07 UTC 版)
「イデオロギー」の記事における「科学技術とイデオロギーの関係」の解説
ユルゲン・ハーバーマスは、現代社会では科学技術が個人の思想とは関係なく客観的に体系化されており、目的合理性において科学技術の体系は絶対的な根拠を持っているとした。ゆえにあらゆる政治行為の価値はまず目的合理性において科学的あるいは技術的に正当なものであるかどうかの判断抜きには成立せず、イデオロギーが何らかの制度を社会に確立するときに目的合理性に合致しているかどうかということは大きな影響を持つとされた。ときにはこのような目的合理性がそれ自体で支配的な観念となり、人間疎外をもたらすと指摘した。すなわちこのような目的合理性が支配的な社会では、文化的な人間性は否定され、人間行動は目的合理性に適合的なように物象化されていくと警告したのである。これは後述のシュミットに通じる考え方である。 しかし一方でトーマス・クーンのパラダイム理論が示唆するように、歴史的には科学理論も技術的に十分検証可能でないときは、必ずしも目的合理的でない、思想的な理論信仰によって主流な科学理論 —したがって科学の方向性も— が決定されてきたということが指摘されている。 このような見方に従えば、歴史的には科学とイデオロギー(と呼びうるような思想信条)の間に相補的関係が成り立ってきたということもできる。たとえば天動説はキリスト教信仰と密接に結びついていたし、地動説についても太陽崇拝であるヘルメース信仰との関連性を指摘する説がある。技術的な進歩によって地動説の正しさが裏付けられたが、技術的に完全な検証が不可能な段階では、どちらの説をとるかは思想信条によって判断されたという見方である。実際にダーウィンの進化論を否定して、聖書的な創造論を学校で教えるべきという運動がアメリカ合衆国で広汎に存在するが、これは進化論が技術的には必ずしも完全に検証されているわけでなく、—たとえばパウル・カンメラーによるサンショウウオやサンバガエル、ユウレイボヤの実験のような--現在のダーウィン的な進化論で説明がつかないとされる実験結果が報告されていたり、宇宙物理学や心理学の立場からダーウィン的な進化論と対立するような目的論的な見解 —サイバネティクスによるコンプトン効果の説明や心理学的な目的論など--が提示されていることによる。もちろんこれらの事実はダーウィンの進化論に懐疑を促す事実であっても、創造論を積極的に支持するような内容ではない。とはいえ、科学理論に対して技術的に検証不可能である場合、思想信条により科学理論が選択されうることは多くの科学史家が認めるところである。 したがってあらゆるイデオロギーが科学技術のような、客観的な目的合理性の上に成り立っているならば、その次元での正当性を論じることによってイデオロギー的政治行為と正しい政治行為の間に判別が可能であると考えられる。目的合理性において明らかに欺瞞を含む政治行為が、正当な政治行為であるわけはないから、社会的なコミュニケーションのレベルでのイデオロギーの摘出には十分効果を期待できる分析であるといえる。 しかしハーバーマスも指摘しているように[要出典]、このような見方の欠点は、イデオロギーが目的合理性に則った社会的なコミュニケーションの場のみで成り立っているかという点に盲目なことである。上述したように、イデオロギーの核心をなす信条や信仰は目的合理性とはほとんど関係ないから、イデオロギー的政治理念が目的合理性に則った政治行為を主張するということも成り立つため、このようなイデオロギーの分析にはあまり有効ではない。 また技術的発展によってイデオロギー的な観念支配から脱却できるかという問題がある。 カール・シュミットはハーバーマスが目的合理性と呼んだような、技術を中立的で、したがって中性的であると見なす考え方を技術信仰と呼んで非難している。技術信仰の立場に立つと、中立で中性的な技術の進歩により、あらゆる思想的な対立は解消されていくとされる。しかしシュミットによれば、このような技術は中立的であるがゆえに、さまざまな政治理念に武器として奉仕することができる。技術は中立的ではあるが、政治的に中性的ではない。技術は道徳的な目的に奉仕することもあるが、逆に非人道的な目的に奉仕することもできる。それゆえに技術的進歩は道徳的進歩ではない。したがって技術の進歩が政治的な対立を解消して、何らかの非政治的な解決をもたらすとは考えられないとした[要出典]。 シモーヌ・ヴェイユは技術のもたらす生産性の発展が必ずしも約束されたものではないこと、ある種の濫費形態が排除されても別の濫費形態が生じてくることを指摘している。ヴェイユは具体例としてエネルギー源をあげ、石油や石炭が枯渇した場合、代替されると予想されるエネルギー源が生産性において石油や石炭に勝っているというようなことは簡単に予想されず、社会がエネルギー的に優れた方向へ進化し続けるということを疑問視している。社会の生産力の発展が抑圧を必然的に解消する —なぜならマルクスによれば階級社会が消滅すればイデオロギー的抑圧なるものは存在しなくなるから— というマルクスの見方にも否定的である。またヴェイユは抑圧を批判しているはずのマルクス・レーニン主義が抑圧を生み出していることを指摘し、このことは抑圧がどのような政治体制のもとであれ存在していることを表しているとした。したがって社会発展がどんなに進んでも抑圧は存在し、その抑圧の根拠となるイデオロギーは常に存在することになる。ヴェイユによれば抑圧の形態に対し常に注意を払い、研究を怠らないことでイデオロギーの潜在を明らかにしていくべきだと述べている[要出典]。
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