秋田叢書の刊行
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1922年(大正11年)、自宅より失火し、多年にわたって蒐集してきた珍籍、書画、史料、和漢書5,000冊余りを失った。深澤はのちに『火災ニ逢ヒシ記』のなかで「自ラ三十年、苦心ノ記録焼亡スルヲ見タトキハ慥(タシカ)ニ精神ガ錯乱シタノデアル」と記している。これを機に貴重な史料の公刊を痛感、以後、目にとまった史料はすべて謄写印刷し、常に同好の士に配った。1927年の大曲町での柳田國男の講演は、菅江真澄研究の重要性を再認識させるものであった。そこで深澤は、横手町助役在任中の1928年(昭和3年)からの『秋田叢書』12巻の出版と1930年(昭和5年)からの『菅江真澄集』の続刊を思い立った。深澤は、宮城県には『仙台叢書』、岩手県には『南部叢書』があり、それぞれ管内の古記録や古文書を収めており、秋田県にも『秋田叢書』が必要だと「県の当局に進言したること一再に止まらない」(『秋田叢書』第1巻)というありさまだったが、秋田県当局は腰が重く、やむなく自主刊行を決意するにいたった。 『秋田叢書』12巻の刊行には多額の資金が必要である。編集顧問に京都帝大の喜田教授をむかえ、編集・校訂は深澤多市のほか、沼田平治、須田勇助、細谷則理、大山順造、国本善治があたり、経理関係は深澤自身が負った。これらのメンバーに秋田市の人は少なく、県南部の人びとが中心であった。東京在住の国本は多市の妹婿にあたり、在京資料の謄写、浄書、印刷所との折衝にあたった。刊行にあたっては会費制とし、深澤は刊行の趣意書を秋田県内外の当時の多額納税者200人に送って会員を募ったが、実際に会員になったのは飯詰村の江畑新之助ただ1人であったという。 1928年4月に発行を発議し、同年9月1日に第1巻を刊行、300部を刷った。題叢は書家の赤星藍城、装丁は原田崇文であった。こののち全12巻のうち11巻までは深澤の生存中に刊行した。発行所は横手町の秋田叢書刊行会、第2巻までは東京市で印刷された。第2巻(1929年1月)、第3巻(1929年7月)、第4巻(1929年12月)、第5巻(1930年4月)、第6巻(1930年10月)、第7巻(1932年7月)、第8巻(1931年4月)、第9巻(1931年10月)、第10巻(1933年4月)、第11巻(1934年7月)というペースで刊行されたが、最後の1冊は未完のまま深澤が病死してしまた。私財を投げ打って『秋田叢書』刊行を実現した深澤家は生活費に事欠くほど困窮したが、未亡人となったキサ(喜佐子)夫人が故人の遺志を継ぎ、身の周りのものを処分して1935年(昭和10年)8月20日、第12巻を50部印刷して刊行、秋田県における本格的な郷土史研究にはじめて道をひらいた。なお、『秋田叢書』は非売品であり、また部数も少なかったので、現在は稀覯本となっている。 戦後、稀覯本となってしまった『秋田叢書』収載の諸資料をさらに一般に提供し、深澤の業績をさらに世人にひろめるため、秋田魁新報社文化部に所属していた井上隆明が中心となり、秋田大学の今村義孝教授を監修者にむかえ、渡部綱次郎、田口勝一郎を編集委員にむかえて1971年(昭和46年)から1979年(昭和54年)まで第3期全38巻の『新秋田叢書』が刊行された。
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