秋田叢書の刊行とは? わかりやすく解説

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秋田叢書の刊行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 09:07 UTC 版)

深澤多市」の記事における「秋田叢書の刊行」の解説

1922年大正11年)、自宅より失火し、多年わたって蒐集してきた珍籍書画史料和漢書5,000余り失った深澤はのちに『火災ニ逢ヒシ記』のなかで「自ラ三十年、苦心記録焼亡スルヲ見タトキハ慥(タシカ)ニ精神錯乱シタノデアル」と記している。これを機に貴重な史料公刊痛感以後、目にとまった史料はすべて謄写印刷し、常に同好の士配った1927年大曲町での柳田國男講演は、菅江真澄研究重要性再認識させるものであった。そこで深澤は、横手町助役在任中の1928年昭和3年)からの『秋田叢書12巻出版1930年昭和5年)からの『菅江真澄集』の続刊思い立った深澤は、宮城県には『仙台叢書』、岩手県には『南部叢書』があり、それぞれ管内古記録古文書収めており、秋田県にも『秋田叢書』が必要だと「県の当局進言したること一再止まらない」(『秋田叢書第1巻)というありさまだったが、秋田県当局は腰が重くやむなく自主刊行決意するいたった。 『秋田叢書12巻刊行には多額資金が必要である。編集顧問京都帝大喜田教授をむかえ、編集校訂深澤多市のほか、沼田平治須田勇助、細谷則理、大山順造、国本善治があたり、経理関係は深澤自身負った。これらのメンバー秋田市の人は少なく県南部の人びと中心であった東京在住国本は多市の妹婿にあたり在京資料謄写浄書印刷所との折衝あたった刊行にあたって会費制とし、深澤刊行趣意書秋田県内外当時多額納税者200人に送って会員募ったが、実際に会員になったのは飯詰村江畑新之助ただ1人であったという。 1928年4月発行発議し同年9月1日第1巻刊行300部を刷った。題叢は書家赤星城、装丁原田崇文であったこののち12巻のうち11巻までは深澤生存中に刊行した発行所横手町秋田叢書刊行会、第2巻までは東京市印刷された。第2巻1929年1月)、第3巻1929年7月)、第4巻1929年12月)、第5巻1930年4月)、第6巻1930年10月)、第7巻1932年7月)、第8巻1931年4月)、第9巻1931年10月)、第10巻1933年4月)、第11巻1934年7月)というペース刊行されたが、最後の1冊は未完のまま深澤病死してしまた。私財投げ打って秋田叢書刊行実現した深澤家生活費事欠くほど困窮したが、未亡人となったキサ(喜佐子)夫人故人遺志継ぎ、身の周りのものを処分して1935年昭和10年8月20日第12巻50印刷して刊行秋田県における本格的な郷土史研究にはじめて道をひらいた。なお、『秋田叢書』は非売品であり、また部数少なかったので、現在は稀覯本となっている。 戦後稀覯本となってしまった『秋田叢書収載の諸資料をさらに一般に提供し深澤業績をさらに世人にひろめるため、秋田魁新報社文化部所属していた井上隆明中心となり、秋田大学今村義孝教授監修者にむかえ、渡部次郎田口勝一郎編集委員にむかえて1971年昭和46年)から1979年昭和54年)まで第3期38巻の『新秋叢書』が刊行された。

※この「秋田叢書の刊行」の解説は、「深澤多市」の解説の一部です。
「秋田叢書の刊行」を含む「深澤多市」の記事については、「深澤多市」の概要を参照ください。

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