神社本庁の設立
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神祇院は占領軍の圧力を想定せず、神社非宗教の立場で現体制を維持出来るものと思っていたが、「神道指令」の発布と同日に廃止された。一方で、葦津珍彦は厳しい弾圧があると想定しており、皇典講究所の吉田茂(“大磯の吉田”こと、のちの内閣総理大臣は同姓同名の別人)、神宮奉斎会の宮川宗徳とともに打開策を探っていた。 1945年(昭和20年)10月25日、葦津の「神社制度改革に対する私見」が、大日本神祇会、皇典講究所、神宮奉斎会の関係者に提示され、民間主導により、神社界の生き残りをかけた話し合いの場がもたれる。葦津案は、「正確な情報の伝達と統一ある処理を行う全国組織の構築」、「各神社の緩やかな連合体としての神社連盟」、「この神社連盟には教義についての採決権を与えない」とする内容であった。11月7-8日に、第2回の民間三団体の合同懇親会が開催され、「三団体は合同する」、「準備事務局を神祇会館に設ける」、「合同についての原案を作成して審議会を開催する」という3点が可決された。しかし、11月13日に、一つの宗教団体のように教義採決権や傘下神社の人事権をもつとする、大日本神祇会の「神社教(仮称)教規大綱案」が、設立準備審議会に提出される。これに対し、葦津は、「教義を固定化することは神社神道の本質に反し、占領下で強力な中央集権組織を造れば占領軍の干渉に有利に働く」と主張し、大日本神祇会案に強く異議を唱える。翌14日に、葦津案を基調とした折衷案が、宮川宗徳から提出され、改めて、検討されることとなった。こうして、審議会は、葦津案を中心に神社界の組織構想を練り上げ、1946年(昭和21年)1月23日、「全国神社の総意に基き、本宗と仰ぐ皇大神宮の許に、全国神社を含む新団体を結成し、協力一致神社本来の使命達成に邁進し、以て新日本の建設に寄与せんことを期す。」として神社本庁設立に関する声明が発せられて宗教法人である神社本庁が発足し、2月3日をもって設立する。神社本庁の発足に従い、宗教法人法(宗教法人令)のもと、神社も、他の宗教と同じく宗教団体として扱われることとなった。 本庁の設立の際、神宮奉斎会から10万円が神社本庁に寄付され、奉斎会の地方本部奉斎所のうち「相当ノ設備ヲ有スル」(宮川による説明より)ものは神社として再発足した。たとえば東京の奉斎会本院は1946年(昭和21年)3月に神社本庁に神社設立を申請し、東京大神宮として再発足した。 1956年(昭和31年)5月、神社信仰の基本となる指針として「敬神生活の綱領」を掲げ、氏子・崇敬者の教化・育成に努めている。また、1980年(昭和55年)7月から「神社本庁憲章」を施行し、神社本庁の精神的統合の基本的規範を確立した。
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