社会主義国家における書記長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 05:06 UTC 版)
「書記長」の記事における「社会主義国家における書記長」の解説
旧東側諸国の場合、支配政党の中央委員会書記長が党首にあたるものとして存在し(日本などの社会主義政党と異なり、書記長より上の党役職は存在しない)、党だけでなく国家の実権を掌握することが多かった。 ソビエト連邦においては、1936年憲法126条で「党の指導的役割」が明記されており、国家元首である最高会議幹部会議長や、行政の長(首相格)である人民委員会議議長ではなく、ソビエト連邦共産党書記長が最高権力者であった。時期によっては、また東欧諸国の一部では、第一書記と呼ばれたこともある。中国における総書記も、やはり元首である国家主席より強い権力を持つ(ブレジネフ以降のソ連や江沢民以降の中国のように、書記長・総書記が元首を兼ねている場合もあるが、その場合でも元首の職責は儀礼的な部分が多く、党の最高指導者であることが権力の源泉である)。 党の方針は予め書記長を含む少数の幹部で話し合い、書記長が具体的な決議案・予算案を文書化してから、党大会でその可否を問うという形で決めていた。 また、党大会の委員も、建前としては「各支部から投票で選出する」ことになっていたが、自由に立候補出来る訳ではなく、中央委員会から事前に送られてくる『候補者名簿』の中から選ばなくてはならない。当然、この名簿の作成にも書記長が関わっていたため、書記長は、自分の言うことを聞き従う委員を選び、自分で作った議案を簡単に通すことが可能だった。 この様な「党の実権を握る書記長」の先駆けはソビエト連邦共産党書記長を務めたヨシフ・スターリンだった。 スターリンが権力を掌握出来た理由として以下のことが挙げられる。 元々ボリシェヴィキには、「ロシアは資本主義が未発達なので労働者の資本家に対する闘争意識も薄い。よって少数精鋭の革命家集団(共産党)が多数の労働者を指揮しなくてはならない」という『前衛党論』と、「党の方針は自由な議論によって決めるが、一度決まった方針には全党員が必ず従わなくてはならない」という『民主集中制』という原則があり、少数の幹部党員によって党を運営することが正当化されていた。ロシア革命直後は反革命勢力との戦争や食糧危機に追われ、定期的に党大会を招集する余裕がなかったため、その傾向が強まった。 党中央の書記長は地方支部の書記の人事権も持っていたので、書記長を中心とする書記の全国ネットワークが構築され、そのネットワークが食料の徴発や反革命勢力の逮捕に利用された。また国民の政府に対する要望も集約できたため、「外国の革命を支援するより自国の発展に注力する(一国社会主義論)」、「地主の土地を取り上げて農民の共有財産とする(集団農場)」といった国民の支持を得られる政策を打ち出し、政敵を追い落とすことが出来た。 1922年にレーニンが脳梗塞で倒れ入院すると、スターリンは手紙や来客をレーニンに取り付いだり、逆にレーニンの意向を党の会議で報告する役割を任された。そのためレーニンに対しても他の党幹部に対しても、都合の悪い情報を表に出さないことが出来た。 結果として、書記、書記長、第一書記といった、本来は事務職員やその取りまとめ役程度の意味合いしか持たなかった軽い言葉が、超大国、大国の最高権力者を指すようになるという20世紀固有の現象が定着していった。本来は、国家のトップといえども人民に奉仕する事務員にすぎないという共産主義の建前であるが、実態は全くこれとはかけはなれた専制主義的独裁者を多く生むことになる。
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