真弓監督時代
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2009年 WBCに出場した岩田稔や正捕手の矢野、先発転向した久保田の故障や、藤川の不調もあり前半戦は低迷。6月に途中加入したクレイグ・ブラゼルや、開幕前にロッテから移籍した久保康友、7月以降先発ローテーションに定着した能見篤史らの活躍もあって、後半戦では8カード連続で勝ち越しを決めるなど巻き返すも、最終戦でヤクルトに連敗し4位に終わり、CS進出を初めて逃した。この年はベストナイン、ゴールデングラブ賞共に受賞者なし、タイトル獲得者もなしであった。3賞で受賞者がいないのは1995年以来14年ぶりであり、規定打席数以上で打率3割を超えた打者なしも2000年以来9年ぶり。9月12日に行われた横浜戦で内川の打球をダイブした際に負傷し、中心性脊髄損傷の診断を受けた赤星が現役を引退した。藤本がFAでヤクルトに移籍、今岡、ウィリアムスらが退団した。シアトル・マリナーズから城島健司、ランディ・メッセンジャー、コロラド・ロッキーズからマット・マートンなどを獲得。 2010年 マートン、城島らが加わって「球団記録の1試合22得点」「2リーグ制以降では球団史上最高のチーム打率.290」「3割打者と90打点以上達成者が5人ずつ」「セ・リーグ史上新記録の1458安打」「1985年、1986年に次ぐチーム史上3位の173本塁打」といった爆発的な破壊力を誇り「第四次ダイナマイト打線」と称された打線を擁して首位争いを展開。しかし中日に対してナゴヤドームで2勝10敗と大きく負け越した事に加え、強力な打撃陣とは対照的に能見が5月2日の巨人戦で走塁中に負傷し4ヶ月の戦線離脱が響き規定投球回に到達したのが202イニングと3分の1を投げた久保だけで規定投球回到達者は1人と広島と並んで12球団ワーストタイ。渡辺こそ61試合に登板して1.98だったものの、久保田が71試合に登板して3.20でホールドポイント上位10選手の中では一番多い37失点、西村が65試合に登板して3.89でホールドポイント上位10選手の中では2位タイの33失点。抑えの藤川球児が58試合に登板して2.01だったものの2桁セーブを挙げた投手の中では2番目に多い7被本塁打を浴び、チームの防御率はリーグ4位にしてAクラスに入った(2007年から導入されたクライマックスシリーズに進出した)シーズンとしては1985年の4.16に次いでブービーとなる4.05。9月に一時的にマジックも点灯し、29日に行われた巨人との試合に勝利しリーグ4連覇を阻止したものの、翌日に行われた矢野の引退試合でもある横浜戦で3-1とリードしながら9回に藤川球児が村田に3ランホームランを打たれて痛恨の逆転負け。優勝マジックと自力優勝が消滅してその後の広島戦も敗れて最終的には首位中日と1ゲーム差の2位に終わった。初めて甲子園で行われたCS1stステージの対巨人戦は、いずれも先制しながら0勝2敗で敗退した。矢野が現役引退。星野仙一SDが東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任する為退団。個人記録としては、鳥谷が104打点で遊撃手のプロ野球記録を樹立、マートンが214安打でシーズン最多安打記録を更新。金本の連続フルイニング出場記録が1492試合で途切れた。FAでロッテの小林宏之、楽天の藤井彰人を獲得。 2011年 3月11日に発生した東日本大震災の影響で、開幕日が当初の3月25日(神宮球場での対ヤクルト戦)から4月12日の甲子園での対広島戦に変更となり、阪神にとって1993年以来18年ぶりの甲子園開幕戦。これを7-4で制し、40年ぶりの甲子園での開幕戦勝利を挙げた。投手では、本格的に先発転向したメッセンジャーが能見と並ぶ12勝を上げる。月間成績は6月から8月まで連続で勝ち越し、8月終了時には2位になる。しかし、9月に入ると首位ヤクルト相手に6連敗を喫するなどし4位に終わった。シーズン後、真弓監督が辞任、後任には和田豊一軍打撃コーチが就任した。下柳らが退団。なお4月にナゴヤドームで行われた中日との試合で8回2アウトランナー1塁の打席で金本が代打で登場するも、1塁ランナーの藤川俊介(俊介)が盗塁失敗してしまい金本の打席が完了しないまま3アウトになり、9回の守備に金本がつかなかった為、連続試合出場記録が1766試合でストップした。
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