盗伐事件の取り締まり
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『御縮山之圖』文化11年(1814)、原作者不明富山県立図書館蔵 『新川御郡大綱色分絵圖』江戸末期、原作者不明富山県立図書館蔵 奥山廻りの初期の目的は国境警備であったが、しだいに世の中が安定してくると木材盗伐や密貿易の取り締まりに重点が変わっていった。この黒部奥山へしきりに出没したのは信州の杣であった。奥山廻りらはこの取り締まりに難儀した。杣たちは奥山廻りが近づくといち早く逃げてしまう。逃げ去った後の盗伐現場で奥山廻りは、盗伐小屋を焼き払い伐採道具を没収して木材を押収した。しかし木材を越中側へ運び出すのは困難であるため、仕方なく信州の木材業者に呼びかけて払い下げたが、足元を見られて安く買い叩かれた。しかしその木材業者こそ杣たちの元締めであった。 正徳2年(1712年)7月、記録に残る最も古い大規模な盗伐事件が起きている。それは針ノ木谷で起きた事件で奥山廻りが現場を発見して取り押さえた。尋問するとこれらは尾張国の杣ども25名で、遠国から出稼ぎに来て国境も分からず入山したと言い、信州松本町の佐平次と安曇郡野口村の弥左衛門の二人が元締めであるのが分かった。奥山廻りは彼らにここは加賀藩の領域であることを教え、国境を熟知しているはずの元締めこそ怪しい人物であるとして元締めを連れてくるようにと使いを出した。しかし不正を行った元締めが来るはずもなく、4日経っても使いの者とも帰って来なかった。そこで仕方なく杣たちを信州方面に追放し小屋を焼き払って伐採道具を没収した。この杣どもは尾張から来たと言うが、尾張藩領の信濃国筑摩郡奈川村はすぐそこであり針ノ木の国境を知らないはずはない。しかし寛大な措置をとったのにはいろいろと理由があった。元締めは御三家尾張領民という親藩の威光を笠に着て、加賀藩奥山廻りの強制執行を免れるためにわざわざ奈川村民を雇っているのであり、奥山廻りたちはこの御三家の百姓と紛争を起こすことを避けたのである。それに同行8人の杣人夫に比べて相手方は25人もおり、これらの者を盗伐者として強制的に加賀藩内まで引致することは困難と判断、やむなくこのような寛大な処置とした。このことは加賀藩内で重大問題となり、その後は奥山廻りには強健な杣人夫30名から40名が付けられるようになった。そして針ノ木岳以南の上奥山を重点的に警戒するようになった。奥山廻りは百姓ながら当然帯刃も許され手錠縄も携行していた。また、杣の小屋掛けした場所で「宝永八年八月野口山」と書いた石が立ててあるのを発見している。安曇郡野口村の山だという意味である。加賀藩の役人はそれを見て怒り「砂磨きに仕り、文字相見え申さず様に消し」ている。信州側では黒部川が国境だという観念を持っていたからである。「野口山」の石標に対抗して加賀側では針ノ木峠や上駒ヶ嶽に毎年「金沢御領」と書いた木札を立てて国境を主張した。山廻り役の名も書き連ねて「杣頭弐十人、平杣弐百人、杣五百人召連」などと書き付けた。奥山廻りは多くてせいぜい30人程度のところを200人とか500人などとかなり誇張して書いていて、「このような大勢で山中を隈無く見回っているぞ」と信州側に脅しをかけている。 安永4年(1775年)、不時の登山が行われた。これは中嶽付近での盗伐情報に急行したものであり、信州安曇郡高根新村の友右衛門の倅、三吉が盗伐者として捕らえられている。その後しばらく大規模な盗伐は無くなり、三吉の名が三吉谷、三吉道、三吉小屋場跡などの地名となって残ったほどの大事件となった。上高地の上條嘉門次も黒部川源流域の地理までは知らなかったが、三ツ岳、赤牛岳方面の山域を漠然と「赤牛三吉」と呼んでいたようで、昭和初期まで信州の古い杣や猟師達は赤牛岳方面を赤牛三吉と呼んでいた。 天明2年(1782年)、針ノ木谷に盗伐小屋を発見したとの通報により不時登山。 享和3年(1803年)、中嶽の下、黒部川筋の池ノ谷付近に3軒の盗伐小屋を発見。 文化7年(1810年)、針ノ木峠で5軒の盗伐小屋を発見。黒檜60本を切り倒して挽板などにして信州側へ持ち出されている。 文化14年(1817年)、針ノ木谷の入り口に盗伐小屋を3軒、その上方にも2軒発見。 嘉永2年(1849年)に針ノ木峠に立てられた木札には、表側に奥山廻り4名の名前と裏側に杣頭20人、平杣200人と書かれている。
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