白主土城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 04:17 UTC 版)
郡域内の西能登呂岬周辺には、江戸時代に発見された白主土城と呼ばれる遺跡がある。その構造は1辺120mの方形で壕と土塁を有し大陸で普及した版築の技法を用い築造されており、アイヌのチャシ(砦)とは大きく異なっているとされる。版築は万里の長城にも用いられた技法である。また、一尺=31.6cmの尺度を用いていることから、築造された時期については11世紀以降とされ、諸説ある。用途については、砦、或いは交易所と推察される という。 平安時代末~鎌倉時代初頭築造説 樺太のワシ羽などの産品はアイヌや和人社会だけではなく、間宮海峡対岸の大陸・満州においても需要があった。事実、北樺太に住むニヴフは、オホーツク文化時代から大陸の民族と頻繁に交易していた。このため、女真族の建てた大陸の金王朝との間で利害が衝突した可能性もあり、土城は末期の金朝が拠点とした施設とする見解もある。 モンゴルの樺太侵攻説 当時、唐子(骨嵬)と呼ばれたアイヌと吉里迷(ギレミ、吉烈滅)の間にワシ羽などの産品の確保をめぐり軋轢が生じた。吉里迷は蒙古(モンゴル人の建てた王朝)に援軍を要請し、モンゴルの樺太侵攻を招いた(吉里迷・蒙古と唐子エゾ陣営の戦いも参照)。蒙古は1264年から1308年の間、半世紀近くの間に数千人、万人単位の兵や船1000艘など大規模なものだけでも複数回(二桁)にわたり派遣している(『元史』、『元文類』巻四十一)。 しかし、当時のアイヌの人口は少なく、兵力に割ける人数は多くて数百人とされ、武器の材料となる鉄や食料なども和人社会から供給を受けていた。また、さらに人口の少ない北樺太の住人のニヴフの一部やオロッコを加えても、蒙古の兵力に遠く及ばず対抗するのが極めて難しいことは想像に難くない。ただ、当時、安藤水軍を擁し北海道や樺太周辺で活動し組織的に蒙古に対抗しうる勢力であった安東氏 も、ワシ羽などの産品の確保の点で唐子エゾと利害が一致し、その後ろ盾になっていたことが推察される。安東氏の連携や支援を受け、唐子エゾは半世紀近く戦い続けたとみられる。唐子エゾ陣営と蒙古はほぼ互角に戦い、『元文類』巻四十一には、骨嵬(唐子エゾ)陣営が黒龍江流域に攻め込んだ記録が見える。このとき、南からの支援や援軍を監視・妨害する目的で蒙古が「果夥(クオフオ)」城を築造したとされており、この白主土城に比定する説もある。 その後、1308年(徳治3年/延慶元年)に唐子陣営側から、地元産の毛皮などの貢納を停戦条件として提示、実質「和睦」するかたちで戦闘をやめて交易するようになり、大陸産品の安定的な確保も可能になった とみられる。この際、安東氏は交戦継続派と停戦派に分かれ安藤氏の乱の原因になったという。その後、蒙古(元)は、明との争いが続き1368年(南朝:正平23年、北朝:応安元年)中国大陸の支配権を失い北走、大陸の黒竜江下流域もしばらく空白地帯となっていた(その後については、波羅河衛も参照)。
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