アイヌの樺太撤退と反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 02:17 UTC 版)
「モンゴルの樺太侵攻」の記事における「アイヌの樺太撤退と反撃」の解説
これ以降、元からアイヌへの攻撃は止むが、元の勢力圏外からアイヌによる攻撃があったことが元側の記録に頻出する。中村和之はこれらの動きから、元によるアイヌ攻撃は、アイヌによる黒竜江流域への侵入を排除するために行われ、アイヌの根拠地を攻めて滅亡させる目的ではなかったとし、1284年からの3年連続の攻撃により、アイヌ勢力は樺太からほぼ排除されてしまったと主張する。元朝は、樺太南端に前進基地として「果夥(クオフオ)」城を設けている。西能登呂岬に遺跡が残る白主土城は、アイヌ伝統のチャシとはかなり構造の違う方形土城で中国長城伝統の版築の技法が使われており、ここで言う「果夥」であった可能性が高い。元軍はこの果夥を拠点として、宗谷海峡を北上しようとするアイヌを牽制したものと思われる。これ以降、アイヌは樺太に対して散発的な侵入しか行うことはできなかった。 1296年には、ニブフのオフェンとブフリがアイヌに投降して悪事をなしたのと記録が『元分類』巻41にある。 1297年(大徳元年)にも、5月にアイヌのウァインがニブフの船にのり大陸のチリマ岬に渡り乱をなすと、元軍は同年6月にアムール河下流域のヒチトルでアイヌ軍を破り、同年7月には元軍がアムール川下流域のフリ川に攻め入ったアイヌを破っている。さらに、8月にはアイヌのブフスらが海を渡ってニヴフの打鷹人を捕虜にしようとしているとの訴えが、ニヴフから元朝に対してなされている。日本では鷲羽は、アイヌ交易の代表品として捉えられており、アイヌは鷹羽・鷲羽流通の掌握を狙っていたと思われる。
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