発足の年1947年度
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「松本市立波田中学校」の記事における「発足の年1947年度」の解説
1947年(昭和22年)4月10日に、開校式と入学式が行われた。生徒数418名、学級数9、職員数16での発足であった。いまだ敗戦の混乱が続いており、校舎も、備品も、予算もなく、教員さえ不足していた。教科書も間に合わず、ノート・鉛筆もない時代であった。波田中学校は、波田小学校に間借りし、体育館・運動場・特別教室も小学校と共用しての発足だった。これ以前、小学校には北校舎、中校舎、南校舎の3棟があったので、中学校が北校舎を、小学校が中校舎と南校舎を使うことになった。 校長も、小学校長との兼任であったが、その事情について、初代校長は「波田中学は9学級で東筑摩郡内では大きいので小学校長の兼任は許されなかったわけだが、私は同じ村の中で村の子どもを教育するのに、小中学校が反目するようなことは教育上絶対に許されないと考え、この旨を県と相談したところ、テストケースとして快く兼任を承知してくれた。・・・職員一同結束し教育に情熱を傾け、和気あいあいのうちに1か年を過ごして来た。さて新学年を迎えることになり・・・1か年の兼任を解いてもらった」と書いている。中学校発足の前年11月3日に新憲法(日本國憲法)が公布され、新制中学発足直後の5月3日に施行されている。そこで、この年5月3日には、波田中学校でも「新憲法施行記念式」が行われている。 食糧不足も著しかった。当時、波田村は農業を中心とする村落だった。農家の割合が高く、当時としては食べ物に恵まれていたはずである。しかし、強制的な供出もあって、農家といえども白米が不足していたのであろう。6月24日に食糧事情調査を行っているが、それによると、「在籍418人、欠席34人、白米61人、混食296人、代用食10人、持参せず5人」だった。「なお欠席34の中にも、弁当を持って行けないからと言う者もいたであろうことは想像に難くない」ともいう。 48年3月に卒業したのは、男子44名・女子32名だった。義務就学ではなく、希望就学だったことの影響で、男女比の偏りがある。また、卒業時のクラス編成は、A組が男子、B組が女子と、男女別クラスになっていた。これを1年後、2年後に比べると次の通りである。49年3月卒業は3クラスで男女混合、男子63名・女子70名だった。義務就学1年目である50年3月卒業は4クラスで男女混合、男子87名・女子98名だった。5月9日には全校遠足を実施し、往復とも徒歩で松本市城山公園まで行った。参加生徒398名、欠席17名。午前7時20分出発、午後4時帰校。7月11日には、徒歩で松本セントラル座に映画『子供の街』を見に行った。午前5時に出発し、帰りは松本電気鉄道の電車を利用した。映画観覧料3円、電車賃4円50銭だった。9月30日には小中合同運動会を実施。12月8日には冬期のみそ汁給食が始まった。11月10日に1年生が諏訪旅行、11月13日に2年生が松本で美術展を見学、同じ11月13日に3年生が諏訪旅行、2月2日に3年生が裁判所・博物館見学。生徒数418名、学級数9、職員数16名。
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