発足の年1947年度とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 発足の年1947年度の意味・解説 

発足の年1947年度

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 01:12 UTC 版)

松本市立波田中学校」の記事における「発足の年1947年度」の解説

1947年昭和22年4月10日に、開校式と入学式が行われた。生徒数418名、学級数9、職員数16での発足であった。いまだ敗戦混乱続いており、校舎も、備品も、予算もなく、教員さえ不足していた。教科書も間に合わずノート鉛筆もない時代であった波田中学校は、波田小学校間借りし体育館運動場特別教室小学校共用して発足だった。これ以前小学校には北校舎中校舎、南校舎3棟があったので、中学校北校舎を、小学校中校舎と南校舎を使うことになった校長も、小学校長との兼任であったが、その事情について、初代校長は「波田中学は9学級東筑摩郡内では大きいので小学校長の兼任許されなかったわけだが、私は同じの中での子どもを教育するのに、小中学校反目するようなことは教育絶対に許されない考え、この旨を県と相談したところ、テストケースとして快く兼任承知してくれた。・・・職員一同結束し教育情熱傾け和気あいあいのうちに1か年過ごして来た。さて新学年を迎えることになり・・・1か年兼任解いてもらったと書いている。中学校発足前年11月3日新憲法日本國憲法)が公布され新制中学発足直後5月3日施行されている。そこで、この年5月3日には、波田中学校でも「新憲法施行記念式が行われている。 食糧不足著しかった当時波田村農業中心とする村落だった。農家割合高く当時としては食べ物恵まれていたはずである。しかし、強制的な供出もあって、農家といえども白米不足していたのであろう6月24日食糧事情調査行っているが、それによると、「在籍418人、欠席34人、白米61人、混食296人、代用食10人、持参せず5人」だった。「なお欠席34中にも弁当持って行けないからと言う者もいたであろうことは想像に難くない」ともいう。 48年3月卒業したのは、男子44名・女子32名だった。義務就学ではなく希望就学だったことの影響で、男女比偏りがある。また、卒業時のクラス編成は、A組男子B組女子と、男女クラスになっていた。これを1年後2年後比べる次の通りである。49年3月卒業は3クラス男女混合男子63名・女子70名だった。義務就学1年目である50年3月卒業は4クラス男女混合男子87名・女子98名だった。5月9日には全校遠足実施し往復とも徒歩松本市城山公園まで行った参加生徒398名、欠席17名。午前7時20出発午後4時帰校7月11日には、徒歩松本セントラル座に映画子供の街』を見に行った午前5時に出発し帰り松本電気鉄道電車利用した映画観覧料3円、電車賃4円50銭だった。9月30日には小中合同運動会実施12月8日には冬期みそ汁給食始まった11月10日1年生諏訪旅行11月13日2年生松本美術展見学、同じ11月13日3年生諏訪旅行2月2日3年生裁判所博物館見学生徒数418名、学級数9、職員数16名。

※この「発足の年1947年度」の解説は、「松本市立波田中学校」の解説の一部です。
「発足の年1947年度」を含む「松本市立波田中学校」の記事については、「松本市立波田中学校」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「発足の年1947年度」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「発足の年1947年度」の関連用語

発足の年1947年度のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



発足の年1947年度のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの松本市立波田中学校 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS