発足と急成長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:57 UTC 版)
1932年8月に阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の小林一三によって、演劇、映画の興行を主たる目的として株式会社東京宝塚劇場を設立。1934年に東京宝塚劇場を開場の後、有楽座、日本劇場、帝国劇場を所有し、日比谷一帯を傘下に納め、浅草を手中に収める松竹とともに、東京の興行界を二分するに至る。 一方、会社設立前年に創設された、トーキーシステムの開発を行う写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCL)は、1937年関連会社JOと合併し、東宝映画株式会社となる。1943年8月30日、東宝映画を合併し、映画の製作・配給・興行および演劇興行の一貫経営に乗り出し、同年12月10日に社名を東宝株式会社と改めた。PCLには大日本麦酒なども出資しており、東宝は発足当初から、従来の市井の興行師からスタートした映画会社とは一線を画する、財界肝いりの近代企業として期待と注目、そして反発を集めた。なお、その名前の由来は「東京宝塚」の略である。 1940年10月1日、東宝系の全劇団は東宝国民演劇団移動隊に発展的解消。古川ロッパ、エノケン、東宝舞踏隊、東宝名人会などがそれぞれ移動演劇班を結成して、地方の農山漁村や工場にも巡回することとなった。宝塚歌劇団は宝塚音楽奉仕隊として健全な娯楽を提供するとともに、忙しい時には勤労奉仕も行う体制を採った。第二次世界大戦に突入すると東京宝塚劇場と日本劇場は風船爆弾工場となり、戦後は東京宝塚劇場が進駐軍専用のアーニー・パイル劇場と改名され、10年間観客としての日本人が立入禁止となるなど、歴史の証人を演ずることになる。
※この「発足と急成長」の解説は、「東宝」の解説の一部です。
「発足と急成長」を含む「東宝」の記事については、「東宝」の概要を参照ください。
- 発足と急成長のページへのリンク