発足から解散まで
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1882年(明治15年)- 神道事務局の後継団体として発足。神職の教導職兼務が廃止となる。3府40県に皇典講究所分所が設置される。初代文学部長に矢野玄道、初代総裁に有栖川宮幟仁親王が就任。校地を東京府麹町区飯田町(現・東京都千代田区飯田橋)に定め、皇典講究所が開黌。 1884年(明治17年)- 皇典講究所の官立移管運動が展開(- 明治18年)明治19年の幟仁親王薨去により頓挫。 1887年(明治20年)- 皇典講究所第1回卒業式。同窓生の会「水穂会」発足。(國學院大學院友会創始とする) 1888年(明治21年)- 府立一中校長・丸山淑人、松野勇雄、元田直、今泉定助らが皇典講究所に補充中学校を設立。後に私立学校の共立中学校に改組。 1889年(明治22年)- 山田顕義、皇典講究所初代所長に就任。皇典講究所内に日本法律学校を設立。(日本大学法学部の前身) 1890年(明治23年)- 皇典講究所に教育機関として國學院を設置。 1893年(明治26年)- 日本法律学校が司法省指定学校になり、同校卒業生に判事検事登用試験受験資格が与えられる。 1894年(明治27年)- 共立中学校を城北中学校と改称し東京府へ移管。(都立戸山高校、城北中学校・高等学校などの前身) 1895年(明治28年)- 日本法律学校が 大日本教育会(神田区一ツ橋通)内に移転。 1896年(明治29年)- 日本法律学校が財団法人に改組し皇典講究所から組織的独立。 1898年(明治31年)- 皇典講究所が財団法人として認可される。 1899年(明治32年) - 内務省より神職養成事業を委託される。 1900年(明治33年)- 禮典調査会を設置。 1909年(明治42年)- 神職養成部を設置。 1923年(大正12年)- 渋谷氷川裏御料地に移転。 1930年(昭和5年)- 神殿鎮座。 1944年(昭和19年)- 國學研究所を設置。 1946年(昭和21年)- 連合国軍最高司令官総司令部の占領による圧力に対抗し、1月に発展的に解消した。翌月、宗教法人神社本庁を設立。大日本神祇会、神宮奉斎会とともに統合し、3月に単独の法人として財団法人國學院大學(学校法人國學院大學の前身)を設立した。
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