発足と構成
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太平洋戦争終戦直後の1945年8月18日に林和の朝鮮文学建設本部を中心として朝鮮文化建設中央協議会が発足した。この協議会は文学と音楽、美術、演劇など芸術の各分野で結成された団体が連合し組織されたものであった。 8月18日、朝鮮文化建設中央協議会傘下に映画部門団体として朝鮮映画建設本部が設置された。中心人物は李載明、金正革、朴基采、李炳逸などであった。委員長は尹白南、書記長は金正革が引き受けた。 だが、組織構成過程や路線に対する資料は残っておらず、参加した人物達のその後の活動を通して団体の路線を推測するしかない。後に左派にも右派にもなる人物が混在していることをみると、解放を迎えてすぐに即席で組織された団体であるとみることができる。映画界内部で一定の合意を経たというよりは突然迎えた解放政局で即時的に出帆したものであり、これには芸術界の各分野にわたって主導権を握ろうとしていた朝鮮文化建設中央協議会側の意図も反映されていた。
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発足と構成
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朝鮮美術建設本部は太平洋戦争終戦直後の1945年8月18日、芸術団体である朝鮮文化建設中央協議会が組織されるに従い、その傘下に創立された団体である。委員長には美術界の元老である高羲東が推戴され、書記長は鄭玄雄が引き受けた。 朝鮮文化建設中央協議会は朝鮮プロレタリア芸術家同盟出身の林和と金南天が各々議長と書記長を引き受け左翼文人達がその中心となった。しかし、まだイデオロギー対立による政治色が顕れるには早い時期であったため、参加の団体である朝鮮美術建設本部には後に左派、右派に分類される美術人が全て混ざっていた。ただ、日本統治時代末期の親日活動の履歴が目に余る金殷鎬、沈亨求、金仁承、金景承、李象範、尹孝重、裵雲成、宋政勳等は意図的に除外された。 分科として東洋画部と西洋画部、彫刻部、工芸部、児童美術部、宣伝美術隊が設置された。東洋画部は盧壽鉉、西洋画部は金周経が委員長を引き受けた。分断が可視化されていなかった時期であったため、ソ軍政が設置される地域まで含めて全国で185名の会員が参与した。後に越北し、北朝鮮に行くことになる美術人にも東洋画部の金瑢俊、西洋画部委員長の金周経、西洋画部委員の吉鎮燮などがおり、当時平壌で活動していた文錫五は彫刻部委員として参与した。
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1945年8月15日、太平洋戦争が終結するやすぐに朝鮮の芸術界では活動が始まった。8月16日にまず林和が中心となって朝鮮文学建設本部が結成され、他分野の芸術人達も次々と団体を結成した。演劇界では8月18日頃に組織された朝鮮演劇建設本部がそれである。 朝鮮演劇建設本部の創立を主導した人物は宋影、金兌鎮、李曙郷、咸世徳、朴英鎬、金承久、羅雄、安英一などで、後に越北する人物達である。だが、日本統治時代末期の官製国民演劇には右派の演劇人達と共に参与していた人物でもある。この頃はまだイデオロギー対立が目立ってはおらず、朝鮮演劇建設本部は左派も右派も包括した汎演劇人団体として出帆した。親日団体と見なされている日本統治時代末期の朝鮮演劇文化協会と人的構成面では大きな違いはなかった。 8月18日には林和が主導し芸術人団体を総括する朝鮮文化建設中央協議会が創立され、朝鮮演劇建設本部は朝鮮文化建設中央協議会の傘下団体となった。委員長は宋影、書記長は安英一が引き受けた。
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