発生の経緯についての研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 07:47 UTC 版)
「1918年米騒動」の記事における「発生の経緯についての研究」の解説
井上清・渡部徹『米騒動の研究』(全5巻)から45年後の2004年に、その間40年以上の間に積み上げられた新たな事実・資料・見地を織り込んで、B5版で623ページにわたる大著として刊行された『図説 米騒動と民主主義の発展』では、「1918年夏の米騒動について残っている証言・資料に現れている、最も早い時点での行動は、東水橋町の女性陸仲仕たち20数人によって、7月上旬から始められた、移出米商高松への積出停止の要求の行動です。」とまとめられている。 2000年ごろまでは、米騒動の始まりは「七月二二日夜、富山県下新川郡魚津町の漁民の妻等が、井戸端で、米が高くなるのは同地方の米を県外へ移出するため」であるから、米の積出しを中止してもらおうと相談し、「二三日午前八時すぎ、警察の調べでは四六名が海岸に集まった。これが全国をおおうた米騒動の発端であった」という説が定説であった。 しかしながら、上述したように、井本三夫編『北前の記憶——北洋・移民・米騒動との関係』(桂書房、1998年)、歴史教育者協議会編・井本三夫監修『図説米騒動と民主主義の発展』(民衆社、2004年)、井本三夫『水橋町(富山県)の米騒動』(桂書房、2010年)など、米騒動に直接参加した女陸仲仕や漁師、軍人など米騒動の目撃者や随伴者への聞き取りを文字化し、新たな視点による分析が加えられた学術書が次々と刊行された。そのため、米騒動がいつどこでどのように始まったのかについては、少なくとも「富山湾沿岸地帯」からであり、「漁村から始まったのではない」、その主体は「海運・荷役労働者の家族」、「都市漁民」の前期プロレタリアであるなどと従来の定説を大幅に改めることになっている。 さらに、米騒動と労働者のストライキとの関係についても「労働者階級の闘争は、一九一八(大正七)年七月の末に所謂「騒動」が勃発する以前から、工場におけるストライキという闘争形態を主たる闘争形態として展開しています。」とし、ストライキの参加人員を見ても「一六(大正五)年には八四一三名の参加人員が、実に一七(大正六)年には五万七三〇九名、米騒動の起きた一八年には六万六四五七名というように、官庁統計からいってもこの一七年がひとつの転機になっている」など、米騒動が始まった結果ストライキが頻発するようになったように言われていたのは間違いであることが、早くから指摘されていた。 また、富山県で米騒動が始まるより2 - 3か月早い「18年の4〜5月になると、もう食糧暴動と言えるものも起こっている」とし、「兵庫県赤穂郡相生町にある播磨造船所」で「食料品価格の高騰のなかで、待遇の悪さに怒った労働者数百人が、ラッパを合図に事務所・食堂・炊事場を襲撃して、器物・建物を破壊し炊事夫に暴行を加えた」という新たな事実が掘り起こされてもいる。
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