甲斐国志の編集・執筆方針
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「甲斐国志」の記事における「甲斐国志の編集・執筆方針」の解説
甲斐国志は幕府に献上された官撰書物でありつつも私撰の体裁を取り、疑わしき旧説や臆説を排し、根拠に基き記述態度も真摯であることが指摘される。例えば、巻二・国法之部で著述される甲州金に関してはその起源を不詳とし、金座役人・松木家文書などを示しつつ甲州金について考察し、甲斐の古文書調査を行った幕臣・儒学者の青木昆陽の『甲州略記』や『昆陽漫録』などの著作を引用しつつも、『甲斐国志』編纂の調査に基きその誤りを指摘している。また、巻四十四・古跡部で著述される「忘川」については同名の河川が見られず、荒川に比定する説と御勅使川に比定する説があるが、『甲斐国志』では『峡中紀行』において荒川説を取っている幕臣・儒学者の荻生徂徠の見解に対して異論を記している。 一方で、武田家に関する記述は『甲陽軍鑑』に依拠し、一部には『甲陽軍鑑』の誤りを踏襲している記述も見られる。また、古跡部では諸所の学説に批判的著述であるのに対し、仏寺部では寺社の縁起に関して伝承化した逸話も記しており、資料的限界とも評されている。 甲府藩主・柳沢氏に至る近世初期の甲斐領主に対しては淡々と昇進に関する記述が記されている。武田信玄・柳沢吉保に対しては敬称が用いられないのに対し、徳川将軍家に対しては敬称を用いており、徳川家康は「神君」と呼称し、歴代将軍は法号で呼称されている。なお、歴代天皇に対しては闕字(けつじ、敬意を示す意味で文中に数字分の余白を開けること)が用いられている。 また、徳川家に対する批判的な記述は一切見られないが、徳川忠長に対しては「発狂」と記されている。甲府城に関する記述も少なく、明和事件で処罰された国学者・山県大弐に関する記述も少ない点が指摘される。 時代区分に関しては天正10年(干支で「壬午」(じんご)、1582年)が区切りとなっていることが指摘される。同年3月には織田信長・徳川家康連合軍の武田領侵攻により武田家が滅亡し、さらに同年6月2日の本能寺の変により武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。甲斐は徳川家康により確保され、武田遺臣の多くは家康に臣従し、同年8月21日には家康に対し「天正壬午起請文」を提出している。こうした歴史的経緯と、徳川将軍家に対して敬意を示す『甲斐国志』の執筆姿勢から天正10年を大きな区切りと意識していたと考えられている。 村々の人口や現存していない文書の書写など貴重な情報を記しているため現代に至るまで広く引用される史料として権威を持ち、同時代でも黒川春村『並山日記』や徽典館学頭の引用例がある。
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