生い立ち・アマチュア時代
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横浜市立横浜吉田中学校を卒業後、高校の入学と同時にフェリス女学院高等学校へ編入した。在学中に、友人とフォークデュオ「ジェロニモ」を組んでボーカル・ギターの担当で活動した。大学入学後もジェロニモは続けていた。ジェロニモの名前の由来は、「男らしくて力強い名前」であり、原は「ジェロニモを結成してから、私の高校生活は明るいものになっていった」と当時を述懐している。中学、高校とコミュニケーションをとるのが苦手であったが、音楽に助けられていた。 青山学院大学文学部英米文学科に入学後、桑田佳祐、関口和之らが所属していたサークル『BETTER DAYS』(ベター・デイス)に入り、桑田らのバンドに演奏の技術を買われて参加した。原が桑田に抱いた第一印象は「なんとなくいじめっ子ぽかった」「こんなにわかりやすい人と結婚するとは、夢にも思わなかった」だという。しかし、桑田がクリームやディープ・パープルを歌うのに原は聞き惚れた。一方、桑田は、原がピアノでエリック・クラプトンの「いとしのレイラ」を演奏する腕前に心底驚いた。
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生い立ち・アマチュア時代
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「黒田正宏」の記事における「生い立ち・アマチュア時代」の解説
生家は黒田官兵衛の子孫と伝わる。黒田が生まれた頃、生家は薬局を経営しており、薬剤師をしていた母から整腸剤を毎日飲むように言われていたことが強い体の基礎となったと回想している。 中学生の時に本格的に野球を始め、姫路南高校では1年次の1963年からベンチ入り。その時の3年生主砲が切通猛で、凄い筋肉で打球をポンポン飛ばしていた。黒田は一流になるにはあのぐらいの筋力がないといけないのかと思い、足腰を徹底的に鍛えた。切通からは「何でもええから走っとけ」と言われ、野球人生で最初に影響を受けた人になった。同年の夏の甲子園兵庫大会で市立西宮高校に6-5で敗れて準優勝。その後3年間、甲子園出場に届かなかった。ハワイ高校選抜チームが来日した際には兵庫県選抜の正捕手を務め、育英高校のエース・鈴木啓示とバッテリーを組んだ。 3年次の1965年に第1回ドラフトで阪急ブレーブスから10位で指名され、父も「給料がいいぞ、いけいけ」と勧めたが、入団を拒否して1966年に法政大学へ進学。1年次の同年から3年次の1968年まで田淵幸一の控え捕手を務め、4年次の1969年から正捕手となる。同年の春季・秋季ともに3割を打ち、秋季では同期のエース・山中正竹とバッテリーを組んで優勝に貢献したほか、同年の第8回アジア選手権日本代表にも選出される。大学同期には山中の他に江本孟紀、堀井和人がいる。 大学卒業後の1970年に本田技研へ入社し、同年の都市対抗に出場。1回戦の三菱自動車京都戦で本塁打を放ち、チームの本大会初勝利と準々決勝初進出に貢献して注目され、同大会の優秀選手賞を獲得。同年の社会人ベストナインにも選出された。
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