生い立ち~アマチュア選手時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 14:21 UTC 版)
「澤田勝彦」の記事における「生い立ち~アマチュア選手時代」の解説
愛媛県松山市生まれ。四人兄弟の末っ子として生まれ、長男・悟(第20代野球部監督などを経て2010年から3期野球部OB会長を務めた)をはじめ三男・栄治は松山商業野球部OBで幼少期から野球に囲まれた生活環境で育った。本格的に野球に打ち込むようになったのは、雄新中学校1年生時に同中学校の先輩で1969年第51回全国高等学校野球選手権大会で優勝し当時松山商業のバッテリーを組んでいた井上明と大森光生を生で見たことがきっかけである。 松山商業選手時代には一色俊作監督から指導を受け、同期でもある西本聖(後の巨人、中日投手など)の球を受けるなど捕手として活躍。(西本の兄・明和(後の広島)と澤田の長兄・悟も同校でバッテリーを組んでおり、第48回全国高等学校野球選手権大会で準優勝を経験している。)1年生だった1972年夏の甲子園予選北四国大会準決勝に進出するも高松商業に敗退。翌1973年夏は県予選準々決勝で南宇和に敗退。1974年夏も県予選準々決勝で帝京五高に0-1で惜敗し、甲子園出場はならなかった。 卒業後は東都の名門・駒澤大学へ進学し太田誠監督から指導を受け、捕手兼バッテリーコーチとして活躍。野球部では、石毛宏典(後の西武、ダイエー内野手、オリックス監督など)らと同期。大学在学中に教員免許を取得している。
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