演劇・テレビ映画の俳優から成人映画の監督へ
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「梅沢薫」の記事における「演劇・テレビ映画の俳優から成人映画の監督へ」の解説
1934年(昭和9年)9月10日、新潟県高田市(現在の同県上越市)に生まれる。 長じて東京に移り早稲田大学に進学したが、中途退学する。当初は俳優を志しており、日本文化協会(NBK)という劇団に所属、同劇団には野上正義(1940年 - 2010年)らがいた。 満25歳のときの1960年(昭和35年)4月3日に放映された連続テレビ映画『海底人8823』第14話『怪光線』や、同年に放映された連続テレビ映画『鉄人28号』等に出演した記録が残っている。1963年(昭和38年)にはタケダアワー『隠密剣士』にも数回出演したが、同年、それらテレビ映画を手がけていた船床定男(1932年 - 1972年)の紹介で知り合った若松孝二(1936年 - 2012年)の誘いを受けて成人映画『悪のもだえ』のチーフ助監督を務め、同作は同年12月31日に劇場公開された。以降、同作を製作・配給した日本シネマで、若松の『赤い犯行』や『乾いた肌』、新藤孝衛監督の『思春前期 恐るべき女子学生』等のチーフ助監督を務めた。1965年(昭和40年)6月に公開された『壁の中の秘事』(監督若松孝二、製作若松プロダクション、配給関東ムービー配給社)のチーフ助監督の後、同年9月に公開された『十代の呻吟』(製作・配給国映)を監督し、31歳で映画作家としてデビューする。監督デビュー後にも若松の『欲望の血がしたたる』(1965年)のチーフ助監督を務め、向井寛監督の『悪僧』および『艶夢』(1966年)の助監督を東本 薫の名で務めている。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、湯浅浪男、宮口圭、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一、深田金之助の名を挙げているが、梅沢については言及されていない(挙がっている名前はいずれも1965年以前デビューの監督なので、同年秋デビューの梅沢はぎりぎり漏れた可能性もある)。 1967年(昭和42年)3月14日に公開された『素肌の罠』を東元 薫の名で監督して以降、日映企画(のちの日映)配給作品を同名で手がける。1968年(昭和43年)2月に公開された『性の配当』は日本シネマの製作・配給作品であるが、同作を監督して以降、日本シネマでは「梅沢薫」、日映企画では「東元薫」と棲み分けをおこなった。1969年(昭和44年)1月に公開された『好色坊主四十八手斬り』(「東元薫」名義)は、勝新太郎のそっくりさんとして知られる酒巻輝男を主演に『好色座頭市 四十八手斬り』として企画されたが、大映からのクレームを受けて改題した。同作が話題になったほか、1970年(昭和45年)5月に公開された『濡れ牡丹 五悪人暴行篇』では、日野洸こと大和屋竺の脚本を得て、港雄一、山本昌平、津崎公平、里見孝二、そして大和屋竺が主演しており、元来の「強烈な作風」の延長線上において「悪と暴力のエスカレートを異常なまでのクールさと非情なタッチで追って梅沢の実力を不動のものとした」作品であると評価された。同年には「コソ泥と頭の弱い少女との交情を微笑ましく、うら悲しく描いた」というメロドラマ『好色泥棒日記』を発表している。
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