江戸期の編纂書・軍記や伝承の説話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/07 14:55 UTC 版)
「武井夕庵」の記事における「江戸期の編纂書・軍記や伝承の説話」の解説
元亀2年(1571年)、比叡山焼き討ちを信長が行おうとした際に、佐久間信盛と共に諌めている(『甫庵信長記』)。 天正4年(1576年)頃、越前・加賀で一向門徒衆を撫で斬りにした信長に対して諫言した(同上)。 天正6年(1578年)1月、宮中の節会や礼学の保護を信長に勧める(同上)。 天正6年(1578年)10月、茶道に力を入れ過ぎると武道が疎かになると信長に諫言した(『当代記』)。 年代不明だが、戦いに明け暮れて家中で礼儀が疎かになったので、家中の礼法を糺すように信長に諫言した(『武家事紀』)。 以上のように信長に諫言をしたという説話が多い。これらは全面的に信用できる史料ではないが、半分くらいは本当ではないかと思われる。
※この「江戸期の編纂書・軍記や伝承の説話」の解説は、「武井夕庵」の解説の一部です。
「江戸期の編纂書・軍記や伝承の説話」を含む「武井夕庵」の記事については、「武井夕庵」の概要を参照ください。
江戸期の編纂書・軍記や伝承の説話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 14:12 UTC 版)
「柴田勝家」の記事における「江戸期の編纂書・軍記や伝承の説話」の解説
ある時、信長が勝家を常任の先陣大将に任じようとすると勝家は辞した。信長はさらに強いて大将にした。その後、安土城下で勝家の隊の行列に信長の旗本が衝突、勝家はこの旗本を無礼と殺した。これに信長は激怒したが勝家は「だから私は先に辞退したのです。先陣の大将たる者にはそれほどの権威を持たせて下さらねば務まるものではございませぬ」と答え、信長もこの勝家の道理には負けて言葉を返せなかった(『常山紀談』)。 武骨の性格で、その秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれ、江戸中期の随筆『翁草』の小唄の1節に秀吉らとともに、勝家は戦場における突進力では随一という意味でかかれ柴田と評されている。 戦いの最中、取っておきの水甕をわざと槍の柄で突き割って、城中の兵士の反撃決意を固めさせ、城外に討って出て、敵勢を崩し、死中に活を得た。甕割り柴田の逸話がある。 土一揆の刀を没収し、それらを鋳潰して、鉄の鎖を製り、舟をつなぎあわせて、九頭竜川に舟橋をこしらえ、秀吉の刀狩りの先鞭をつけた。知恵柴田の逸話がある。 『武家事紀』に、あるとき勝家が前田利家に「今、上方で明智光秀や菅屋九右衛門などという者が出世して諸事に口出ししていると聞くが、自分は信長に仕えて今に至るまで、戦功およそ二十四度に及ぶから、誰々が出世したといっても心許ないことだ」と語ったという逸話が載せられている。 織田信秀から相伝の「姥口釜」を勝家自身が信長に直訴することによって拝領したことが確認できる(『当代記』天正9年2月15日条)(「川角太閤記」)。このほか、信長から拝領されたという伝承のある「柴田井戸」という茶碗が現存する。このように信長から「御道具」を拝領されていた可能性があるが、信長が下賜した名物を使用した茶会である「御茶之湯」 に関しては許可された可能性は確認することができない。 賤ヶ岳の戦いで敗北後、前田利長の居城・府中城で前田利家と対面し、先に撤退した利家を責めなかったばかりか、数年来の骨折りを謝して勝家は利家に対し、「秀吉と仲がよいのだから必ず降るように。私のことを思って再び道を誤ってはならない」と語ったという(『加賀金澤前田家譜』)。しかし利家の基本研究書も史実として触れず、撤退は秀吉に事前に通じて裏切っていたとしており、歴史家・高柳光寿は自家に都合のいいことばかり書いていると批判している。
※この「江戸期の編纂書・軍記や伝承の説話」の解説は、「柴田勝家」の解説の一部です。
「江戸期の編纂書・軍記や伝承の説話」を含む「柴田勝家」の記事については、「柴田勝家」の概要を参照ください。
- 江戸期の編纂書軍記や伝承の説話のページへのリンク