民主化運動家としてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 民主化運動家としての意味・解説 

民主化運動家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:20 UTC 版)

金大中」の記事における「民主化運動家として」の解説

朴正煕による十月維新の後は、日米両国滞在しながら民主化運動取り組んだ1973年昭和48年8月8日東京滞在中、ホテルグランドパレス何者か(複数)によって拉致され行方不明となった。この犯人たちは、謀殺意図した韓国中央情報部 (KCIA) の工作員であった事が後に判明する拉致後、神戸から出港した工作船の上殺害される寸前であったが、日本海上保安庁ヘリコプターが船の上旋回し照明弾などで威嚇したため、犯人らは殺害中止その後ソウル解放され九死に一生得たが、ソウル自宅日本人記者らに会見行った後、2か月間、軟禁状態に置かれた。 「金大中事件」も参照 1976年3月には尹潽善と共に民主救国宣言」を発表した後に逮捕裁判中にも関わらずソウル拘置所から遠く離れた晋州刑務所へ送られるその後懲役判決を受け、1978年3月釈放された。1979年10月26日朴正煕暗殺事件起きると、民主化機運高まってソウルの春訪れ韓国政界金大中金泳三金鍾泌の3人のリーダー注目されるいわゆる三金時代始まった1980年2月29日公民権回復政治活動再開するが、3か月後の1980年5月18日に再び逮捕。これが原因となって光州起きた民主化要求デモ軍部武力鎮圧する、流血大惨事となった光州事件)。このため軍法会議首謀者として、また1977年発生した学園浸透スパイ団事件での“摘発スパイ”の自白から「韓国民主回復統一促進国民会議」の議長とされ、死刑判決受けた日本当時鈴木善幸首相はこれを憂慮して11月21日崔慶禄駐日大使会談し、「日韓親善からみて、金大中身柄重大な関心憂慮の意を抱かざるを得ない」と発言しその旨全斗煥大統領伝達するよう要請した。この事を受け、『朝鮮日報』は11月25日付の紙面で、鈴木発言を「内政干渉である」と批判した。しかし、次第民主化弾圧死刑判決であると国際的な批判強まって1982年1月23日閣議決定により無期懲役減刑される事が決定し12月23日米国へ出国条件刑の執行停止された。 「光州事件」も参照 1985年2月8日亡命先米国からの帰国強行し軟禁状態に置かれたが、1か月後の3月6日全斗煥大統領より政活動解禁された。1987年には再び公民権回復16年ぶりに直接選挙制で行われた大統領選挙平和民主党結成して軍人出身盧泰愚挑むものの、金泳三分立したことが文民勢力分裂招いて敗北した金泳三と金大中得票率合計55%で、当選した盧泰愚36・6%をはるかに上回った)。 1989年1月8日昭和天皇崩御により在韓日本大使館設置されていた焼香所で90度のお辞儀をして拝礼をした。 1992年にも金泳三鄭周永らを相手大統領選を戦うも再び敗北これをもって金大中一時政界引退表明したその後研究生活入り論文を書く日々送っていたが、次回大統領選挙に向け動向注目浴びていた1995年に、新政治国民会議結成して総裁就任政界復帰した。

※この「民主化運動家として」の解説は、「金大中」の解説の一部です。
「民主化運動家として」を含む「金大中」の記事については、「金大中」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「民主化運動家として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「民主化運動家として」の関連用語

1
2% |||||

民主化運動家としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



民主化運動家としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの金大中 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS