民主化運動家として
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朴正煕による十月維新の後は、日米両国に滞在しながら民主化運動に取り組んだ。1973年(昭和48年)8月8日、東京に滞在中、ホテルグランドパレスで何者か(複数)によって拉致され、行方不明となった。この犯人たちは、謀殺を意図した韓国中央情報部 (KCIA) の工作員であった事が後に判明する。拉致後、神戸から出港した工作船の上で殺害される寸前であったが、日本の海上保安庁のヘリコプターが船の上を旋回し、照明弾などで威嚇したため、犯人らは殺害は中止。その後、ソウルで解放されて九死に一生を得たが、ソウルの自宅で日本人記者らに会見を行った後、2か月間、軟禁状態に置かれた。 「金大中事件」も参照 1976年3月には尹潽善らと共に「民主救国宣言」を発表した後に逮捕。裁判中にも関わらず、ソウルの拘置所から遠く離れた晋州刑務所へ送られる。その後に懲役判決を受け、1978年3月に釈放された。1979年10月26日に朴正煕暗殺事件が起きると、民主化の機運が高まってソウルの春が訪れ、韓国政界で金大中・金泳三・金鍾泌の3人のリーダーが注目される、いわゆる三金時代が始まった。 1980年2月29日に公民権を回復。政治活動を再開するが、3か月後の1980年5月18日に再び逮捕。これが原因となって光州で起きた民主化要求のデモを軍部が武力鎮圧する、流血の大惨事となった(光州事件)。このため、軍法会議で首謀者として、また1977年に発生した学園浸透スパイ団事件での“摘発スパイ”の自白から「韓国民主回復統一促進国民会議」の議長とされ、死刑判決を受けた。日本の当時の鈴木善幸首相はこれを憂慮して、11月21日に崔慶禄駐日大使と会談し、「日韓親善からみて、金大中の身柄に重大な関心と憂慮の意を抱かざるを得ない」と発言し、その旨を全斗煥大統領に伝達するよう要請した。この事を受け、『朝鮮日報』は11月25日付の紙面で、鈴木発言を「内政干渉である」と批判した。しかし、次第に民主化弾圧の死刑判決であると国際的な批判が強まって、1982年1月23日の閣議決定により無期懲役に減刑される事が決定し、12月23日に米国への出国を条件に刑の執行を停止された。 「光州事件」も参照 1985年2月8日に亡命先の米国からの帰国を強行し軟禁状態に置かれたが、1か月後の3月6日に全斗煥大統領により政治活動を解禁された。1987年には再び公民権を回復。16年ぶりに直接選挙制で行われた大統領選挙で平和民主党を結成して、軍人出身の盧泰愚に挑むものの、金泳三と分立したことが文民勢力の分裂を招いて敗北した(金泳三と金大中の得票率の合計は55%で、当選した盧泰愚の36・6%をはるかに上回った)。 1989年1月8日、昭和天皇崩御により在韓日本大使館に設置されていた焼香所で90度のお辞儀をして拝礼をした。 1992年にも金泳三・鄭周永らを相手に大統領選を戦うも再び敗北。これをもって金大中は一時、政界引退を表明した。その後、研究生活に入り、論文を書く日々を送っていたが、次回大統領選挙に向け動向に注目を浴びていた1995年に、新政治国民会議を結成して、総裁に就任。政界復帰した。
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