民主化政策と天安門事件
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1989年4月に北朝鮮を公式訪問中に留守を預かった李鵬・保守派の誇張された報告を信じた鄧小平が、『人民日報』に掲載させた「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」(四・二六社説)で学生運動を動乱と表現したことに対して論調を和らげるよう主張して帰国後から鄧小平・李鵬らと撤回し、軌道修正を巡って論戦になった。 5月3日の五・四運動70周年記念式典では学生たちの愛国心を評価し、翌5月4日にはアジア開発銀行理事会総会で「学生たちの理にかなった要求を民主と法律を通じて満たさなければならない」「我が国の法制度の欠陥と民主的監察制度の不備が腐敗をはびこらせてしまった」などと演説した。後者は秘書でありブレーンの鮑彤が起草したもので、政治局常務委員会や党中央書記処に見せること無く発表した。北京市長(当時)の陳希同は5月8日の政治局常務委員会会議で四・二六社説の精神と一致しないと指摘したが、趙は「間違っていたら責任を取る」と反論した。 アジア開発銀行理事会総会における演説は政治局常務委員や長老の反応もまずまずであり、デモ沈静化に一定の効果もあった。15日にミハイル・ゴルバチョフの訪中を控えていたこともあり、鄧小平は趙紫陽の要求する四・二六社説の論調を和らげることを考え始めたが、5月12日には翌日から学生が絶食を始めることがわかり、趙の穏健戦略は事実上破綻した。10日の政治局会議で対話路線をスタートした矢先の出来事で、ゴルバチョフの中国訪問までに天安門広場の占拠をやめさせることはできなかった。なおゴルバチョフと会見に臨んだ趙紫陽は当日に人民大会堂での会見で記者を前にこう語った。 “鄧小平同志從1978年十一届三中全会以来,是国内外公認的我們党的領袖。儘管在十三大根据他的請求,他退出了中央委員会,退出了政治和常委会,但是我們全黨都知道,我們離不開他,離不開他的智慧和經驗。因此,十三届一中全会郑重作出决定,在最重要的问题上,仍然需要邓小平同志掌舵。”鄧小平同志は1978年の第11期3中全会より国内外が認める我々の党の指導者だ。第13回党大会における彼の要求に基づき、中央委員会、政治局と政治局常務委員会からは退いたが、我々全党は彼から、彼の知識と経験からは離れられないことを知っている。第13期一中全会では正式な決定を行っている。これは公布していないが重要な決定だ。つまり、我々は最も重要な問題において彼の操舵を必要とするというものだ。 このように「最終決定権が鄧小平にある」ことを明かした。鄧小平に局面悪化の責任を負わせる意図があると見られ、また周囲もそのように感じた。この発言で鄧小平と趙紫陽の関係は破綻した。16日夜の政治局常務委員会でも趙紫陽は依然として四・二六社説の修正を主張したが、喬石・胡啓立ら趙紫陽に近い常務委員・楊尚昆・薄一波も難色を示した。 17日に朝から鄧小平の私邸で政治局常務委員会が開かれ、前日同様に常務委員5人・楊尚昆国家主席・薄一波元老の2人が出席したが、柔軟路線に賛成する者はおらず、鄧小平が北京に戒厳令を発令するよう提案した。常務委員会の採決では李鵬と姚依林が賛成・趙紫陽と胡啓立が反対・喬石が棄権した為鄧小平に委ねられた。趙は党中央を代表して学生たちに絶食を中止するよう求める文章を人民日報に掲載させたが効果はなかった。 18日に鄧小平が八大元老と辞意を示し、体調を崩した趙紫陽を除いた常務委員の洪学智・劉華清・秦基偉ら中央軍事委員会委員との会談で戒厳令発令を決定し、席上の趙紫陽に対する批判が相次いだ。19日午前4時に趙紫陽は天安門広場で絶食を続ける学生たちの前に向かい、「我々は来るのが遅すぎた。申し訳無い」と声を詰まらせながら約8分間拡声器を手に学生たちに絶食をやめるよう呼びかけた。趙紫陽が公の場に姿を見せたのは、これが最後となった。午後10時から開かれた戒厳令を布告する大会には「体調不良のため」欠席した。 その後、6月3日から翌4日にかけて、デモ隊は武力弾圧された(第二次天安門事件)。
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