正解テーゼ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 01:09 UTC 版)
「ロナルド・ドウォーキン」の記事における「正解テーゼ」の解説
「神に対して冒涜的な契約については、今後無効とする」という法案が立法過程を通過したとしてみよう。社会は、日曜日(安息日)に取り結ばれた契約は、それだけで神に対して冒涜的なのかどうか、ということに関して分裂するであろう。立法者のうちでこの問題を考えて投票した者はほとんど無く、果たしてその法をそのように解釈すべきなのかどうかについて同様に分裂している。トムとティムは日曜日にある契約を結んでしまったため、トムは法の条文を行使してその契約を無効にしようとティムを訴えたが、ティムはその法の実効性に異議をとなえる。正しい答えはどれかということについて社会が深刻なまでに分裂している状況においてでも、裁判官はトムの契約が有効かどうかについて正しい答えを求めるべきだろうか。あるいは、正しい答えなんてない、と言うほうがより現実的なのだろうか(Dworkin, 1978)。 興味深く、そして議論を呼ぶことに、ドウォーキンは大抵の法的事案に関して唯一の正しい答えがある、と主張する。彼はハーキュリーズという、極めて賢明であらゆる法源を知り、また十分に考える時間をもった理想的な判事のメタファーを用いる。法は縫い目の無い網であるとの前提に立つならば、ハーキュリーズはどんな事案を決定するに際しても、全体としての法(純一性としての法)を最も網羅し正当化するような理論を構築しなければならない。ドウォーキンによれば、ハーキュリーズは常に唯一の正しい答えにたどり着くだろうと言われる。 ドウォーキンは、ある事案に対してなにが解決と呼ばれるかということについて、有能な法律家達の間でさえしばしば意見が一致しないということは否定しない。むしろ、法律家達はハーキュリーズが出したその答えに同意しないだけなのである。 ドウォーキンの指摘によれば、実定法(すなわち、法実証主義にいう法源)が欠缺や矛盾にあふれているだけでなく、他の(原則を含む)法的基準もまた、ハードケースを解決するのに不十分であるとされる。それらのうちのいくつかは通約不可能であって、そのような状況においてはハーキュリーズでさえもジレンマに陥り、どのような答えも正しいものではないだろう、という。 ドウォーキンは、次のように言うことによって自身の立場を擁護している。すなわち、判事達であれ、一般の人間と大差ないのであって、通約不可能な選択肢や価値の間で自分達の進む道を見つけるのである、と。また、我々がすでに手にしている規則や原則が互いに衝突した場合、常に他の規則や原則を見出すことが可能なのである、と。しかしながら、互いに通約不可能な倫理基準や原則に関する同様の反論が、その過程で見出されるさらなる原則や規則に対してもあてはまるだろう。つまり、常にさらなる原則や規則を考慮に入れることができるという主張は、そのようなさらなる原則がどのようなものかということを一切説明しないのであり、全能の判事であるハーキュリーズの手になる法解釈もいつかは(正しい答えに至った時点で)終わる、ということである。実際、ドウォーキンの主張からは正反対の結論もまた導き出されうるのである。すなわち、全能なるものの導きにしたがって法解釈を続けていくと、永遠に終点にたどり着かないのである。それゆえ、ハーキュリーズをもってしても、ある時点での「正しい」答えは得られるかもしれないが「最終的な」正しい答えにはたどり着かないだろうと思われるのである。あるいは、どのように進むべきかということを教えてくれるものは皆無であるということになる。 ドウォーキンのハーキュリーズのメタファーは、ロールズの「無知のヴェール」やハーバーマスの「理想的発話状況」と似ているところがある。彼らはみな、いくらかでも有効性のある規範的な命題にたどり着くために、理想的な方法を提示しているのである。そのなかでもロールズの例の特徴は、純粋に理想的な事柄と実際的な事柄を同じ地平で見ようとしていることにある。例えば、民主主義的な社会における政治との関連で言えば、次のような物言いをする。すなわち、権力者達は、反対する立場にいる人々を、自分達が反対する立場に回ったときに望む形で取り扱わなければならない。なぜなら、権力者達が現在とっている立場は、将来の政治情勢における自分達の立場をなにも保証しない(不可避的に反対する立場に回らなければならない時がくる)からである。他方で、ドウォーキンのハーキュリーズは純粋に理想的なものである。すなわち、そのような人が存在したならば、彼はあらゆる倫理的なジレンマの中でも正当にたどり着くであろう、というようなものなのだ。 ドウォーキンは、正解テーゼによって懐疑論、すなわち法的倫理的なジレンマに対しては正しい答えを決定することはできない、とする議論に攻撃を加えた。ドウォーキンの反懐疑論は次のようなものである。すなわち、懐疑論者の主張の性質は根本的には、実質的な倫理主張の性質と類比的である。実質的な倫理主張とは、法的倫理的ジレンマの真偽は決定できないと主張することによって、事物のあり方に関する存在論的な主張を避けつつ、倫理的な主張をすることによって、特定の個人の損害と引き換えに法的倫理的問題を解決しようとするが、認識論的な不確実性という面から見て、それは正しくない、という主張である。
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