橋本との抗争
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1999年1月4日、東京ドーム大会における3度目の橋本戦において、自らをスランプに追い込んだ橋本に対して、セメントを小川は仕掛けた。小川は、橋本が入場曲をバックに花道を入場する途中で「橋本!死ぬ気があるなら上がって来いっ!」と、リング上から前代未聞の「相手の入場中にマイク挑発」を行い、試合前から不穏な雰囲気が漂った。 試合が始まって間もなく、小川から数発のパンチを受けた橋本は小川に不可解なレッグダイブを繰り返した。それは小川をロープ、コーナーに単に押し付け続けるもので、ブレイクを命じられても橋本は意図的に膠着状態を続けた。間に入ったレフェリーのタイガー服部を橋本が蹴りつけノーレフェリー状態になると、観客もその試合の異常を感じ始めた。小川は橋本を倒し、マウントポジションを取り、頭部を「プロレス的」ではないパンチで殴り、うつ伏せで倒れた橋本の後頭部を踏みつけ、エプロンに逃れようと転がる橋本の無防備な顔面を蹴りつけ、橋本がリング外に転落すると、その異様な展開に場内は騒然とした。橋本のセコンドについていた中西学らだけでなく、当時橋本と敵対していた小原道由までもが小川に詰め寄り、大混乱の中、試合はノーコンテスト(6分58秒)となった。 「プロレス」を行うつもりであったにもかかわらず、小川の格闘技的なパンチに不意をつかれた橋本は、攻撃らしい攻撃を全く行えなかった。ゴングが打ち鳴らされた後、1人リングを占拠した小川は、両腕を水平に広げ走り回るパフォーマンスを見せ(当初、飛行機ポーズと言われたが実際はUFOをイメージしたものであった。)、「もう終わりかよ!、おいおいおいおい、冗談じゃねーぞ、オラァ!」、「新日本プロレスのファンの皆様、目を覚ましてください!」とマイクパフォーマンスを行った。リング下ではセコンド同士の言い争いに端を発し乱闘が発生しており、ついには当時引退して現場監督だった長州力がリングサイドのカメラマンを押し退けてリングに上がり、コーナーポストに座る小川に対して「小川、これがお前のやり方か?」と詰め寄った。こうして小川は「暴走王」として一気にステータスを上げることになる。 この時の乱闘騒ぎはいわゆるアングルではなく、プロレス史上最大級のガチンコの乱闘であったとされ、リング内外に前代未聞の大混乱が発生した。また、この時の乱闘は両陣営が顔面を拳で殴打し合い、倒れた人間を集団で踏みつけるなど通常のプロレスにおけるアングルに従った乱闘では、ご法度の危険な行為の応酬となり、小川のセコンドについた村上和成も混乱の中で飯塚高史らに集団で顔面を踏みつけられ、一時昏睡状態に陥るほどの重傷を負い入院に追い込まれている。 当時、全日本プロレスに所属していた三沢光晴は全日本プロレス中継内で、「プロレスラーが弱く見られがちな試合だった」と頑なにコメントしている。当時の全日本の選手が、テレビで新日本について語ることは異例中の異例であった。 1999年10月11日、新日本の社長に就任した藤波辰爾の意向もあり、NWA世界ヘビー級王座を賭けての橋本再起試合が決定し4度目の対戦(レフェリーは藤波。)。橋本がキックで小川を追い込むシーンも見られたが、STOの連発で橋本はグロッキー状態に。放心状態ながらも何度も立ち上がろうとする橋本を見かね、それでも試合を続行させようとするレフェリーの藤波に代わってリングサイドで試合を見守っていた猪木がリングに駆け込み、小川を殴り試合を止めTKO判定により完全に勝利した。この試合の模様は、ニュースステーション(テレビ朝日)で取り上げられるなど注目された試合であった。しかしながら、同番組の格闘技ニュースの選択のしかたが世間の注目度とずれていることがあるとの意見を持つ久米宏が降板している時期の出来事だった。 2000年1月4日、小川はタッグマッチで橋本・飯塚組と対決(小川のパートナーは村上)。試合は橋本・飯塚組が勝利したが、事実上試合は小川vs橋本、村上vs飯塚の図式となって進んだ。翌日のスポーツ紙紙面は試合結果よりも、橋本が小川を場外でV1アームロックに捉えたシーンを掲載した。
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