栃木町への県庁設置の経緯
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「栃木県庁の移転」の記事における「栃木町への県庁設置の経緯」の解説
戊辰戦争のさなかの1868年7月6日(慶応4年5月17日)、旧幕府の真岡代官所(現・真岡市)が土佐藩兵に襲撃されて焼き払われ、代官・山内源七郎らは討ち取られた。2日後、その跡を管掌する真岡仮代官(のち真岡知県事)には佐賀藩士の鍋島貞幹が任命され、真岡代官が支配した幕領8万5,012石の村々が引き継がれた。同年7月23日(6月4日)にこれを真岡県とし、その役所は「下野知県事役所」として宇都宮城内に設置されたが、管掌する広大な地域と連絡するには不便な立地にあったため、より支配地域の中央に近い石橋町(現・下野市)開雲寺へ9月29日(8月14日)に移転した。同28日(13日)付で真岡県が弁官に届け出たところによれば「民政取締向真岡地方不便利」により「仮陣屋」を取立てるとされている。 この頃、下野国北部の日光(現・日光市)では旧幕府軍の脱走兵や浮浪の徒が多く徘徊しており、また神領として旧幕府に厚遇されていた背景もあって、風紀が乱れ特別な処置を必要としたため、重点的に統治すべく役所を順次日光へ移転することとなった。まず同年10月16日(9月1日)、旧日光奉行所に「知県事日光御役所」(「知県事出張役所」とも)と称する出張所を設置。次いで翌1869年3月27日(明治2年2月15日)、ここを本庁として日光県を新設し、石橋の開雲寺は支庁となった。日光知県事は鍋島が真岡知県事と兼任しており、事実上は同一県の状態であったと見られる。8月27日(7月20日)に真岡県は廃され、日光県に併合された。 しかし、追って真岡代官領のほか諸旗本や寺社の領地、喜連川・対馬府中(厳原)の両藩領などが管轄地域に加わって広大になると、日光に本庁がある状態はやはり不便になり、新たな移転先を検討することになった。ここで初めて栃木の名が浮上する。1871年(明治4年)に日光県から弁官へ提出された「石橋宿出庁引移ノ儀ニ附伺書」には、栃木町について次のように記されていた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}巴波川通船路モ有之諸運送便利宜、殊ニ大凡野州ノ中央ニテ四通八達ノ勝地ニ有之、人家稠密豪農商安住罷在従来諸民輻輳ノ土地ニテ自ラ無頼ノ徒モ入込ミ候ニ付旧藩ニテモ出張陣屋取建有之 「旧藩」とは足利藩戸田家のことで、1704年(宝永元年)に栃木町に陣屋を設置し、幕府瓦解まで宿場町の全域を管轄した。また同伺書では次のように述べている。 速ニ本庁ヲ引移申度候ヘ共、俄ニ本庁ヲ転シ候ヒテハ地下人心居リ合方如何可有之旨聊懸念ノ情モ御坐候ニ付〈中略〉先以テ不取敢石橋宿出張所ヲ相移シ もともと主眼にあったのは日光本庁の移転であり、石橋支庁を移転させるのはその地固めであることが明記されている。1871年6月26日(明治4年5月9日)、石橋支庁は伺書の通り栃木町の定願寺へ移転し、明治4年6月に日光県は「日光県庁ヲ橡木駅ヘ移シ橡木県ト改称ヲ乞フ」伺書を弁官へ届け出て、本庁の移転を申請した。1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県を経て、12月25日(11月14日)に日光県ほか10県を統廃合し、下野国北東部に宇都宮県、同国南西部に栃木県が成立したが、このとき栃木県南西部には上野国の山田・新田・邑楽の「東毛3郡」(いずれも現・群馬県南東部)が加わっていた。明治4年11月に定願寺への県庁新設を届出、12月に日光を引き払って県庁移転を完了。すぐにまとまった官衙を必要としたため、1872年(明治5年11月)、栃木近郊の薗部村鶉島(現・栃木市入舟町)に新庁舎が落成し、新暦施行を迎えた1873年(明治6年)1月1日に開庁した。そして同年6月15日に宇都宮県を合併し、1876年(明治9年)には東毛3郡が群馬県に編入されたことで、元の下野国及び現在の栃木県とほぼ同じ領域を持つ栃木県が完成した。
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